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Little Eden



6ページにも及ぶ、これまで書いてきた日記の中でも一番長い日記となります。よろしくお付き合いくださいませ。(笑)

10月28日水曜日

この夏、私は手術した。
夢のように過ぎていった1ヶ月と24日だった。体重も8キロ減った。
胃カメラも飲んだ。悪夢のような日々だった。
私は胆石だったのだ。

6月23日(火)あの、なりをひそめていた胃痛が夕飯のあと来た。その日はしばらく横になっていたら良くなった。そして、28日(日)朝食のあと痛くなった。その日は会社を休んだ。でも、昼までに良くなって、大掃除したり、まんが読んだりして夕方になるのを待って、チャイナガーデンでヒロくん&ジュンちゃんの結婚式の2次会にKと行った。久しぶりにアキコさんにも会った。
次の日29日、普通通り会社に行って、何事もなく過ぎるはずだった。
悲劇はその夜起こったのだ。
またしても夕食後の胃痛!今度は横になっても治らない。夜、床についても眠れない。痛すぎて。がまんできなくなって、錬司さんに病院に連れていってもらう。でも、夜間だからろくな手当はしてもらえない。痛み止めもあまり効かない。原因がわからないんだからあたりまえだ。
30日、会社をまたしても休む。1日中苦しんだ。食事も入らない。
そして、7月1日(水)、私は入院した。
最初、エコーという検査をしてもらった時、胆のうに石があるとイトウ先生に言われ、腹が痛いのもそのせいだと言われた。すぐに手術を、なるべくならしたほうがいいと言われたが、薬でなんとかしてくれ、と頼んだ。
絶食と点滴で腹の痛みはすっかり良くなった。それは、膵臓の炎症のせいだったのだ。たぶん、たくさんある石の中のひとつが膵臓の出口をふさいでいるのではないか、ということだ。
すっかり痛みがなくなったので、8日(水)に点滴をやめて、それで痛くならないようなら退院しましょう、ということだった。

さあ、第2の悲劇はその昼に起こった。
膵臓食はなんともいえない粗末なもの、おかゆにぜんぜん味のない煮物、なのに、その昼はシューマイはあるわ、スイカはあるわ、で、私はすっかりペロリと食べたわけ。さあ、食べて30分もしないうちに胃がすごく重苦しくなってきて、息苦しくてかなわなくなって、痛み止めを打ってもらった。
そしたら楽になって、しばらくしたらミウチさんがお見舞いに来てくれた。
ミウチさんが帰ったあと、眠くなって寝た。と、突然、目が覚めたのだ。
あれっ?と思った瞬間、ものすごい激痛が私を襲った。
信じられないくらいの痛さだった。
28年間、今まで生きてきて経験したことのない痛みだった。お産の時のほうがまだましだった。
先生が来てくれるまでに痛み止めを2本打ったけれど、ほとんど効かなかった。このまま死んじゃうんじゃないかと思った。
その日から2日間、つまり48時間点滴をしてもらい、3日間の絶食でようやくおさまったのだった。
それから、CTスキャンをしてもらったりしたが、よくわからず、透視をすることになった。17日(金)にアライ君が昼過ぎにお見舞いに来てくれてた時に先生が来て月曜にするからと言われて、その時はするつもりだった。
だけど夜になって、いろいろ飲むところを想像したりしてたら、やっぱり出来ない、と思い、次の日に先生が来たら、検査するくらいなら手術しますって言おうと思ってたのに、結局来なくて日曜が来てしまった。
看護婦さんに先生に連絡取れないかと聞いたが、月曜の朝、先生が来たらお願いしてみてごらん、と言われた。
でも結局、当日20日の午後1時、私は無情にも胃カメラを飲むことになったのでした。で、写真を見せてもらって、石がやっぱり膵臓の出口の所に一個、こっぽりとはまってしまっていた。
もう胃カメラも飲んだことだし、もうなんにも怖いものはないから、手術することに決めたのだった。

そして次の日、私は主治医の先生が、外科のキノシタ先生に変わった。
更に次の日、22日(水)は手術のためのいろんな検査をした。心電図とか、耳たぶをちょっと切って血の止まり具合を見てもらったり、肺活量とか、身長、どれくらい息を止めていられるか、麻酔が身長に合うかどうかのテストやら、レントゲン、その日は本当にあっちにバタバタ、こっちにバタバタと忙しかった。
そして、23日(木)は、2病棟に別れを告げて、3病棟に移っていったのである。ああ、その前に、21日は外科の外来に降りて、手術の説明をキノシタ先生から受けたんだ。
普通、胆石は1〜2週間で退院できるけれど、私の場合はもう胆のうが働いてないので取ってしまうことになるので、しばらく管をつけないといけない。そのために3週間ほどかかるということだった。膵臓をふさいでる石はファイバーで取るんだって。ま、むつかしいもんではないから、ということだった。
そして、27日、手術決行の日がやって来た。
手術は昼1時半からで2時間もかからなかった、ということだ。
3日(月)までのまる1週間は最低だった。吐き気が始終あってご飯なんてひと口も食べれない。でも3日の日は、それまでの気分がうそのようになくなって、食事も食べれるようなった。でも、やっぱりおかゆだけは食べれなかったけど。
5日(水)に、ほとんどもとの気分に戻ったので、内科の時の病棟にお見舞いに行ってみようと思い、まず会社に電話してから、ということで、してたら、先生が肝臓がだいぶ弱ってるから、安静にして寝てて下さいと言うので病室に逆戻り。
6日(木)は、ミウチさんとヤマモト課長がお見舞いに来て下さったし。
11日(火)に検査をしてもらって、次の日に管を半分抜いてもらった。
13日(木)は先生休みで、14日(金)に抜くんだろうな、と思ったら、朝の回診の時、他の先生方が、まだ早いんじゃないか、と言うので、いよいよ抜いてもらう時、私の方から「待った」コールをかけてしまいましたよ。
で、結局17日(月)に晴れて抜いてもらい、自由の身になりましたが、退院できたのは24日(月)ということになった。
ほんとほんと、ごくろーさまでした、だったなあ。

2ヶ月も入院してるといろんな事あったし、いろんな人とも知り合った。
内科の時の主治医でイトウ先生、嫌いだった。冗談のひとつも通じない無愛想な奴だったし。外科に移ってから一度も顔を見せに来なかったもの。その反対に、外科のキノシタ先生は良かった。こわそうな先生って最初思ったけど、けっこうおもしろい事言うし、私も冗談のひとつも自然に言えてよかった。カタオカさんには嫌われてたけど。
看護婦さんにメッコのいとこだという人もいたし、その人には内科の時、腹痛が起きた時、すごく親身になってもらえて、あとで感謝感激だったし、外科では、高校の時の同級、イトウさんもいたし。
やっぱり外科の時より内科の時の方が思い出深いよね。
フクモトばあさんに、カマタのおばあさん、イワサキさんに、大きい方のイワサキさん、そしてアダチさん。忘れられない、あの夜、私は一生忘れないと思う。
あの夜はまだ手術も胃カメラも決まってない、そんなことすることにはならないだろうと思ってた時で、こんな夜もあって楽しいなあと思ってた。
あの夜からもう2ヶ月経ってるなんて信じられない。そして、あの時一緒にいたアダチさんはもうこの世の人じゃないなんて。あの時、誰も夢にも思わなかった。
アダチさん──もう絶対忘れることのできない人。私の事も他の人の事も、いつも励まして元気づけてくれた。
「ヤマトさん、カナタくんのためにも頑張ってね」あの言葉が耳から離れない。詰所の前のソファに座りながら、一緒に歯もみがいたね。
今こうやって、あの人の事を思い出してると、ほんとにどんどんどんどん時は過ぎていってるんだなあ、と思ってしまう。
確かにつらかったし、痛かったし、良くなって退院できるんだろうかと、不安な毎日だった。でも、こうやって振り返ってみると、なんと貴重な2ヶ月だったんだろう、と思えるっていうのが、なんだかとても不思議だね。
こんな時、私は運命というか、神というか、先祖というか、そういったものを身近に感じてしまう。
今回、何べんと、おばあちゃん(母方の)の助けを求めた。そして、不思議と良い方向に変わっていってくれた。
私は、今回の事も何かの因縁でなったとは思えないし、思いたくない。
私という生きている人間の試練のために起きたものだと思いたい。(まるで丹波さんだなあ)
でも、そうだとすると、これからももっとイヤな事、痛いことあるんだろうなあ。
そう思うとゆーうつになるけどね。
まだ覚えてるけど、高2〜短1までのあの吐き気もつらかったもんねー。今回もつらかったしー。
だけど、カナタのためにも精神的にもっと強くならないといけないもんね。
そのための試練なのかもしれない。おしりに火がつかないと動かないタイプだから私は。
10年後、20年後は、私もカナタもまわりもいったいどうなっているだろうね。その時もこうやってこんな風に日記をつけてればおもしろいね。
その頃、ここを読み返して、あーこんなことあったんだー、こんなこと書いてたんだって思うんだろうな。想像つかないやね。

手術の事をちょっと。
パンフレットなんかもらって手術にそなえたけれど、まず呼吸の練習ね、23日(木)に3階に移るからと言われて、荷物を運ぶ時、ちょうどKとアライ君が来てくれて、手伝ってもらった。
手術は27日だけど、丁度、個室があいたから、看護婦さんにも慣れとくといいから、と、3病棟の婦長さんに言われて4日間は個室料金が1日3500円かかるけど、入ることになったんだ。27日から一週間はタダだからね、ということで。その日から呼吸の練習したけど、あれ、結局なんの役にも立たなかったなあ。
26日は港祭の花火あったけど、手術が次の日だから、そんな場じゃない。夜、9時には下剤と精神安定剤飲んで横になりましたよ。昼頃からまずーい流動食だったしねー。
でも、おかげでかどーかわからないけど、横になって5分も経たないうちに目が覚めたら(そんな感覚だった)もう朝の5時だった。あれー私眠ったという自覚ないよー。こんな完璧な熟睡ははじめてだったよなー。
そしてトイレに直行!そして6時頃にまたかんちょーしてもらって(あれ?7時だったかな?)朝ごはんはなし。
10時頃に点滴が始まって、12時半にあのイヤな鼻から管!!
上手だと看護婦さんにはほめてもらったけど…。
12時45分には麻酔がかかりやすくするための注射をお尻に1本打ってもらう。さあ、1時半の手術まで秒読み開始だね。
ストレッチャーに乗せられていよいよ手術室へ。
手術室はほんとに手術室だったなあ。
手術台に移って、横になって、点滴がまた始まって、マスクを口にあてられて「はい、吸って」と言われ、いちにさん、真っ白!!
なーんか夢見てたようなそんな気分の中「はい、ヤマトさん、終わりましたよ、起きて」と、手術台の上で起こされました。
最悪な気分!病室に帰るまで、段差のある所がヤだったなあ。やっぱり傷がひびいて痛いんだもの。
その夜は最低の夜だったなあ。鼻の管のせいで、タンは切りにくい、喉につかえる、暑い!酸素吸入は、あとでわかったことだけど、用を果たしてなかったみたいだし…。
次の日の朝の回診の時、鼻の管を抜いてもらった。
その夜は、うちのお母さんも私も、さあ寝るぞーだったのに、夜中に起こされて急に相部屋になってしまった。次の日に手術を受ける人が入ってきたのだった。
一週間はひとりだよーって嘘ばっかり!結局、次の日はその部屋から隣のヨネヤマのおばあさんの所に押し込められちゃったわよ。一週間後ヨネヤマさんと二人で大部屋に移るまでずーっと。ほんっと頭きたわよねー。
大部屋にはカタオカさんが一人でいた。同級生のお母さんだった。
私は知らなかったけど、錬司さんは知ってたみたい。
あの部屋もけっこう楽しかったな。あとでマスダさんっていってアキレスを切っちゃった人も入ってきたし。タケウチさん、あのカヨちゃんのお母さんも入ってくるし。

とにかく、もっと感じたことなどいろいろ書きたいことはあるけど、だんだん月日が経っちゃって。でも、次々、私のまわりは新しいことが起きているので、次の詩をもって入院生活編はおしまいにしようと思う。
これは、手術の前日に書いたものです。(もとい3日前でした)


  窓から外を眺めて空を見た
  心が涙を流してる
  苦痛の涙を流してる
  空の青さがつきささるのだ
  だけどわたしは帰らなきゃ
  愛しい者が待っている
  心の痛みはとてもつらい
  泣きたくても泣けないし
  叫びたくても叫べないのだ
  かつてない苦痛がわたしをむしばんでゆく
  あまりにつらくて
  かつての痛みを忘れてしまいそう
  だけとわたしは帰らなきゃ
  小さな手が待っている
  空が鳴いていた
  わたしの痛みにこたえるように
  運命を共にしてくれるように

             1992.7.24(金)



この手術したあとに、テレビは見れなかったのでラジオだけが楽しみだった。その時、傷の痛みで凹みそうになった時に、ラジオから流れてきたのがこの曲だった。




歌で頑張れるとなった初めての歌。本当に感謝しているし、今でもこの曲はすごいと思う。
退院して元気になって、レコードショップにこのCDを探し歩いたのもいい想い出。






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