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Little Eden



私は正直な人間ではない。狡くて意地汚い。決して人に好かれるような人間ではない。さらに、それを隠そうとしていい子ぶる。自分でもなんてことしてるんだ、と思うが、どうにもならない。結局は自分がかわいいのだから。
人に嫌われたくない。人にいいとこを見てもらいたい。意識しているわけではないのだが、すぐ現れる。私、知ってる。私、出来る。だけど、人前であんなことこんなこと恥ずかしいから出来ない。すると他人がする。嫉妬。
嘘じゃない。本当だ。といっても、どうやらこの大学(鳥取女短)で、わりと嫌われているような雰囲気がいつもする。わかるんだろうか、心の中のことが。確かに、自分では気付かなくとも、態度、口ぶりに表れているのだろう。
中学、高校と、そんな雰囲気を感じたことなかったために、近頃は苦痛でならない。それもクラスの人たちに、だからだ。ただの思い過ごしかもしれない。けれど、感じるものは感じるのだから、仕方ない。中でも特にKとは体育祭の頃からよそよそしい間柄になってしまった。近頃は気を遣いながらでも話をするようになったが。そうでもしなきゃ、これから、2年…といっても1年…の間、顔をつきあわせなきゃならないんだから。しかも、出席番号は隣同士。体育の時間は苦痛そのものだよ。気を遣うっていうことは、確かに人間関係を保つためにはしなきゃならないことにしても、特に彼女に対しての気の遣い方は苦痛、苦痛、その一言でしかない。毎日がつらい。
でもそんなことばかりじゃないからいい。彼女も寮にいるけど、Hはいるし、Oはいるし。彼女らがどう思っていようと(私のことを)必要以上に気を遣うことはないから。

NO.16が10月10日に終っていたのだけど、たぶん、↑もそんなに時を隔てずに書かれたものだと思う。11月かそこらじゃないかな。体育祭の後に書かれたものだと思うから。17からは日記にははっきりと名前が書かれてなかった。ここに出てくるKは「あの彼女」であるとはよく覚えているけど。HとOは…誰だったかなあ。

体育祭までは人間関係で悩みを持つってことはまったくなかった。ところが、今ではあんまり覚えてないのだけど、体育祭でKとの間がぎくしゃくしてしまって、それ以降、彼女だけでなく他の人たちの何人かともうまくいかなくなってしまった。まあ、そのほとんどが私の思い込みだったのだとは思うけど。

17からは、それまでに日記で意識して書くってことはなかった、自分の本音みたいなものを書くようになった。マイナスな考えの自分を正直に。それもあってなのか、相手の名前を書くのにためらいが出てきてしまい、いつかもし、その人がこれを読んでしまったら…と思って、それでイニシャルで書くようになったんだよね。思い出せる人もいるけど、これって誰のこと書いたんだっけとなることもある。今の私としてはちゃんと名前で書いとけばよかったなあと思う。

なぜ、自分に不利になるはずであるこんなものを書く気になったのだろう。これからのちにつらづらと書きなぐられることは、時には自分の夢とかステキなこともあるだろうけど、誰々の悪口やら腹立つことなどばかりになるんだろうに。
ただ、私は死ぬのがイヤなのだ──なんで話がこう飛躍するのだ!
私の最大の我が儘、このまま若く年を取らず、死なないこと。自分がこの世からいなくなることがたまらなく淋しいのだ。知ってほしい。私を。もっと多くの人に。もっと広い地域に。そして全ての時代の人に。そう思い、しかし、決してそれはかなうことのない願望。私は人間なのだ。母の体内から生まれ、この大地に還る運命にある。私は例外ではないのだ。だけど、私は”例外”になりたい。普通の人間でいたくない。だから私は書く。ここに記したことがいつまでも消えず、この世の終りまで残って、多くの人に私を知ってもらうために。──私はずっと生きて、この世界をいつまでもみつめていたい。──

あれから30年経って、今の私は「普通の人でいたい」と思っている。普通の人でも何かものを書くことはできるし、それに、今の私は多くの人に読まれたいと思うことは全くないとは言わないけれど、それでも、一番自分の書いたものを読みたいと思っているのは私自身だということに気づいたから、必ずしもたくさんの人に読んでもらいたいと思っているわけではないんだとわかったから。

私のクラスにKさんという人がいる。クリスチャンかどうかは聞いていないのでわからないが、信仰者であるには間違いない。
私は、というと、私はクリスチャンではない。洗礼も受けてないし、教会にも行ったことがない。しかし、ノンクリスチャンでもない。というのは、私はキリスト教に興味を持っている人物なので、時々聖書やら神に助けてもらっている人物というだけにすぎないのである。全然無関係でもないが、密でもない。これは正直な私の気持ちである。

教会に行ったことないっていうのは嘘だ。子供の頃に行った覚えがある。聖書を読んだり賛美歌を歌った。

いろいろと将来のことを夢見てるけど、たとえば友人のMの発言「何れ、自分たちで金を儲けるようになったら、ビルでもおっ建てて、自分たちの図書館を造ろう!」まだ他にもある。確か、これも彼女の言葉だったと思う。「共同経営のためのビルを建てよう」つまり、医療、保育、美容、食品、事務、劇団といった共同ビルのこと。
夢はだんだんふくらむが、もし、あの有名なノストラダムスの大予言がその通りになったら?永久に出来ない夢でしかない。だって、たとえ、私と数人の友人たちが生き残ったとしても、今のような裕福な暮らしは続けられないはずだから。全ての財産は失われ、ただひとつ命だけが自分たちの財産になるのだから。
ああ、でも、友人たちが一人も欠けることなく、空に翔びたちたいわね。いつまでも宇宙を旅したいわね。

ノストラダムスの大予言が過ぎても、結局は裕福な暮らしなんて手に入らない。ただ、その日を生きていくだけの稼ぎはあるからまだマシだろう。でもまあ、あれから30年、私たちの誰一人まだ欠けていない。まだ生きている。その親たちは何人かこの世から去ってしまったけどね。それはしかたない。

私はかなりのすねかじりだ。親がいるから金はなんとかなるさ、という安心感が常に心にある。でも、ある星占いに書いてあったように「親と金はいつまでもあるとは思うな」ということは確かにほんとのことだな。そりゃね、もう仕事を持っていて、自分ひとりくらいはなんとか生きていけるっていうのなら、いつ親がいなくなってもそんなに痛手ではないかもしれない。肉親に対する感情、愛情は別として。
お父さん、お母さんには、長生きしてほしい、とは思う。でも、反対に、してほしくないっていう気持ちも本当のことだ。近頃のおばあちゃんを見ているとそう思う。お父さんやお母さんがそうならないとは誰にもいえないもの。まだお母さんは私と同じく生きがいを持っているから、早くにボケることはないと思うけど、お父さんのほうがそうなりそうで不安だ。なにも、何もできなくなった親を面倒見るのが嫌だから、と、いうわけではない。父も母も私の知る限りの自我を持っている。その自我がなくなっていくのを私は見ていたくないのだ。だから、私は父も母も面倒を見たくない。おばあちゃんだって、私の子供の頃はちゃんとした意見を言える自我を持っていた。つい10年前のことだ(10年っていえば昔かなぁ)
それでもそんな姿を見たくない。それくらいなら、私のほうが先に死んでしまいたい。老人にだけはなりたくない。外見より、そういった自我がなくなることが、すこぶるこわい。

結局、本音は面倒見たくないってことなんだと思うよ、どんなに奇麗事言ったってね。でもまあ、今でも父と母は生きてるし。母は変わらず元気で、父はヨボヨボになってしまったが、それでも自我はしっかりまだある。でも、父はいつ死んでもおかしくない状態なんだよなあ。

倉吉から帰る時、後ろの車両なんか乗るべきじゃなかった。あそこは憎ったらしい高校生でいっぱいになるからだ。ああいった奴らは、メタメタにたたきつぶせばいいんだ。ガキのくせして、まわりの者の迷惑も考えんと、我がもの顔で煙草を吸いやがる。
でも、あんなやつらを見返すことのできない自分も憎たらしい。
弟を見ていても腹が立つ。やっぱりあいつとは性が合わないらしい。精一杯あいつの前では”ぶりっこ”して見せるのだが。なんであいつ、あんなに変わってしまったのだろう。昔はあんなんじゃなかったのに。
だから、私は、男には甘い期待はもちたくない。もちろん子供にも。いや、子供はいいもんだ、とは思うけど、自分で育てたいとは思わない。私はきっと保母さんには向いてないんだ。

自分の息子の大きくなっていく様を見ていても、まるで弟が大きくなっていくのを見ているのと同じだなあと感じたものだった。女の子もたぶんほとんどがそうなんだろうけど、男の子もほんと変わっていくなあ。いやまあ変わっていくことが悪いことじゃないんだけどね。ただ、ちょっと淋しいよね。






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