これは日記帳に書いていたものではなく、当時、別のノートに詩を書いていたのですが、それに書いていたものでした。 卒業文集の写真を放課後残って編集委員の仲間と先生とでやっていたわけですが、堀田先生は私のクラスの担任でした。もう何年か前にガンで亡くなっています。私の母より少し年下というだけだったと思うので、まだそんな年寄りってわけじゃなかったと思う。 つくづくこの年のを読み返すと思うことなんだけど、どうして私はあの「不幸な出来事」のことを日記に書いておかなかったんだろうって。そう、忘れ物を取りに戻る途中に起きた事件のこと。登校してきたときと違う服に着替えてきた私に対して、当時シンイチが私が血の気が引くほどの発言をしたことが今でも忘れられない。その生の悲鳴とでも言うべきものをどうして書かなかったのか。 でも、当時の私はやっと好きな男の子のことを書けるようになったところであり、やっぱりかなりのネガティヴなことっていうのは日記には書けなかったと思う。日記からは、両親とも仲良くやってるように書かれているけれど、当時の私は、母親に対してかなり鬱屈した思いを抱いていたはずだもの。一番頼りにできる、けれど、叱られてばっかりで、自分は愛されていないんだと思い込んでしまってたし。そういった時期に起きたあの「不幸な出来事」だったから。かなりの精神的なダメージを私に与えたんだもの。 でも、シンイチの発言で、それがどういった発言だったかよく覚えてないのだけど、血の気が引くほど動揺はしていたはず。でも、ただただもう恐ろしいという気持ちしか持っていなかったと思う。なんというか、神経が麻痺してしまい、こんなことは誰にも知られたくないとか、そういう気持ちは持ってはいた。本当は母にも話すのもためらわれたんだけど、どうにもこうにも自分の胸にはしまっておけなくて、台所で夕飯の用意をする母にやっと話した。その後、塾の行き帰りもIさんやFさんに一緒についててもらいなさいと言われたり、卒業文集の編集で遅くまで学校にいたときも帰りはちゃんと先生に送ってもらなさいと言われたりした。はっきりとは覚えてないけれど、先生には私の事情は言ってなかったと思う。さすがに「これこれこんなことがあったから」とは言えず、母に送ってもらいなさいと言われたと言ったんじゃないかな。結局はそういうことを言わなくても、先生はみんなを車で一人一人自宅まで送ってくれたし、そのつもりだったんだろうし。今思うと先生が生徒を自宅まで送るのはあたりまえですよねえ。そんな時間まで学校行事とはいえ生徒をとどめていたわけですから、勝手に帰らすわけにはいかんでしょうし。 だけど、IさんとFさんには私からそういうことがあったと言ったように思う。確か。つまりは結局は第三者にも自分の体験した不幸な出来事を話してしまったということです。 彼女ら二人とは後に仲違いしてしまったんだけど、その二人には「不幸な女の子」という事情を話したことによって、彼女らに精神的負担をかけてしまったんだろうなと思う。まあ、そういったことも含めて、二人は私をだんだんと疎ましく思い、嫌いになっていったんだろう。まあ、とはいえ、それだけじゃないんだけどね。もっと決定的なことはあったと思うし。ただ、それはさすがに私自身の名誉のためにもこういった場所には書けない。本当に匿名中の匿名な場所ではすでに書いたんだけど。それも教えるつもりはない。子供の頃にやった悪い遊びとともに、このネットのどこかにひっそりと存在している情報。しかも、恐らく誰かが読んだとしても、書いた人の創作物だと思われているでしょう。そういった書き方をしたから。 それにしても、2月25日に書いた夜の学校での編集作業のことを書いていたおかげで、あの「不幸な出来事」があったのは、23日か24日だったのだと何となくわかった。25日の夜、母に「先生に送ってもらうように」と言われていたのをはっきりと覚えているから。 私は忘れない。あの「不幸な出来事」が起きたあとで見た、校舎から見えるイルミネーションを。今でもまだはっきりと覚えているあの夢のような光景。でまあ、一緒に編集委員をしたTくんは当時の私の好きな男の子だったんですよね。結局、中学に行ってからも三年間同じクラスになったものだったけれど。中学に入ってすぐに、他の男の子に心変わりしてしまった。(爆) でも、一年の時は、とにかく彼とは好敵手でねえ。特に漢字書き取りでは毎回争ったものだったけれど。彼は高校は違う高校に行ってしまって、中学卒業以来会ってない。何年か前の同窓会にも来てなかったみたいだし。どうしてるかなあ。 | ||