2012年03月13日(火)11:20



昨日は雪降ったのだけど、仕事行く時は降ってなかったし、帰る時も降ってはいなかった。ただ、買物して帰る時に降り出して、それがけっこうな降りだったものだから、家に辿りつくころには雪まみれになってしまった。それでもそんなに寒いとは思わなかった。やっぱ春になったんだなー。昨日は旦那は昼前出勤で、だから昨日は6時まで仕事した。今日は午前中に階段掃除。次の金曜はゴミ捨て場の掃除だ。明日、掃除の札をもらいに行き、その時にお掃除グッズもらおうかと画策中。それにしてもさっき、玉姫様きた。
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■ 21:48

『読者に見える人になれとは言わないが、読者は文章を通して、だんだんとブロガー自身を見えるようになっていると思う。ただ、誰もが一から順に読んでくれるわけでもないので、自分が見えるエントリは必要だと思うようになってきた。私らしさを感じる文章ってなんだろう?』by 読者が見える人、読者に見える人: 304 Not Modified

自分が見える文章か。確かに私の書いた物すべてを読んでもらえるはずもなく、たとえばこの一日だけの雑記だけで「あんたはこういう人間だ」と言われる事もあるだろう。実際、そんなふうに断定されたこともある。それがかなり私にとって耳の痛い評価だったことも確かで、もちろん腹も立てたし、むかついてしまった事もある。だがしかし、今はそれはしょうがないなあと思うようになった。そりゃ最低な評価をされれば、今だって胸は痛くなるし、心が傷つく。でも、同時に、その評価はある意味正しいのだ。だって私はどんなものを書いたって、そこに「私自身」が滲み出ているのだから。それだけ私は自己顕示欲が強いのだから。

私らしさを感じる文章?

それは私が書くすべてに出てるよ、と。ここで書いてるのもそうだし、別の場所で書いてるのもそうだ。天慈という名前以外のものだって、どんなに私とかけ離れた文体で書いていようが、その文章に「私」は表現されている。きっとわかる人にはわかるはず。私は文章で自分を偽る事ができないのだから。それは日記のようなものだけでなく、小説にもそれは出ている。私が。たぶん、それは小説のキャラに私自身を投影して書いてしまっているからだけど。

昔は、「私をそんなふうに見て欲しくない」とか「私はそんな人間じゃない」と思ったこともあったけれど、今はどんなふうに見られても「しょうがないか」と達観できるようになったかな。私の書いたものでそんなふうに感じたというのなら、間違いなくそれは私だし、それを「違う、私はそんな人間じゃない」とは思わない。それは、こんなふうに誰かに見て欲しいという気持ちを持たずにいろいろ書くようになったからでもある。正直に今の気持ちを書けばいい、たとえそれでどんなふうに思われようともかまわないって。だから、私は自分らしさを感じる文章ってなんだろうなんて考えないようになった。だって、自分らしい文章は考えて書くようなもんじゃないから。素直に何も考えず好きに書けば、自ずとそこには「自分らしい文章」が生まれてくるんじゃないかな。

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