2009年11月29日(日)08:47
曇り。

昨日は一日を通してけっこう雨降ってたな。今日は降らないでくれよっと。

昨日は親子三人で録画していたアニメをいくつか見て、昼からプラントに買い物に行き、それをいったん家においてから米子の靴屋さんにいってズックなどを買った。旦那も息子も私も一足づつ買い、私はさらにサンダルも買う。プラントで買ったサンダルが、はいてると思いのほか痛くて、もったいないとは思ったけど新しいのを買うことにしたんだ。さて、まだ新しいあのサンダルはどうしようか。一応しまっておいて、ベランダのサンダルが潰れたら、それに回そうかな。靴屋さんの次はケンタに行った。今、ピーターラビットのお皿などがついてるパックがあって、それをほしくて昨日の晩ご飯はケンタにしたんだ。AとBの二つのパックがあって(おまけはどっちも同じ)二種類を買うことにした。米子から帰ってみると、まだ4時過ぎ。でも、もうすでにお腹すいてたみんなだったんで、用意をして4時半くらいからすでにご飯にした。再び録画していたアニメを見ながら食事。ハガレン、ワンピ、ドラゴンボール。録画していたのは全部見た。で、6時ごろにはすでに旦那は寝てしまった。その後、ごそごそやってて息子も私も風呂に入り、9時から私はヒーローを見た。最初、見るつもりなかったんだけど、洗濯しながらネットしてて、他におもしろい番組なかったんで眺めてたら、これって映画版ヒーローでちょろっと出てきた中井貴一がどうして監獄に入ってるのかがわかる内容だったんで、見てよかったなーと思った。おかげで早く寝るつもりがまたしても12時前になってしまったけど。

さて、昨日の仕事場はどうだったかな。今日は普段どおりに仕事になってるとは思うけれど。もっとも、日曜だからまたまるこちゃんが始まるまでには帰れないとは思うけど。もしかしたらサザエさんが始まるまでにも間に合わないかも。まあ、今日は旦那は昼前に出勤で早く帰らなくていいんだけど。でもやっぱり日曜は早く帰りたいよなあ。







『そうするとその期間中に絶望期もあればノリノリ期もあって、
ノリノリ期にはいろんなことを「見切ったッ!」みたいなヘブン状態で
頭のなかのことを書き留めておこうとエントリも書き書きするわけで。

それで最近気付いたのですが、その時期のエントリって、
ほんとうにへこんでいるときは読めないのです。
なんというか「ああ、わたしにもこんないい時期があったよね…」みたいな、
「でもいまはこのざま…」みたいな気分になってしまう。(暗いですね)

でも、どん底から浮上しかけていて、なんとなくちょっと気力が回復してきた…
あとちょっとでなんか元気になれそうなんだけどな…みたいな時期に読むと、
なんとなく前向きな気分を取り戻せたりするのです。』(「ブログを書いててよかったとおもったこと - インターネットの備忘録」より引用)

凹んでいる時にどんなものが読めなくなるのか…私の場合は自分の書いたものに限ってはどんなものでも読めるという自信はある。ただ、症状によっては読めないこともあるんで、それが明るい内容なのか暗い内容なのかは関係なく、体調関係がよくない場合は何も読めないし、精神的によくない状態の場合はどんな内容でも私は読む。もっとも、精神状態がよくない場合は、私は自分の書いたものより他人の書いたものを無性に読みたくなるんだけどね。ただ、体調が悪い時でも、その症状によっては自分の書いた物を読み返すことができることもある。それは、すごく悪いわけじゃなく、なんとなく体調不調っていう場合なんだけど。こういう時は、そのもやもやした体調の悪さのせいで余計なことばかり考えてしまって、結局は精神的によくない状態になってしまい、さらにその精神状態が身体に影響及ぼして、最終的には身体に変調を来たしてしまうこともあるんで、何とかして身体にまで影響を与えてしまう前の段階で食い止めなくてはならないということで、私は過去の似たような症状の時の書き物を読み返すんだ。すると、それで安心できて何とか乗り切れるってことが何度かあった。

だから、私にとっての「ブログを書いててよかった」ということは、こういうことで、なんだろうなあ。私の体調悪さを救ってくれたのは、ドリコムで吐き散らしていた呪詛の塊のような内容に埋もれているちょっとした日々の体調のことだったんだから。あんな糞みたいなブログでも私を救ってくれる。正直に書くことはこういった見返りもあるんだと痛感した出来事だったな。だから、この↓の引用記事を書いた人の気持ちが私にもわかるなあと思う。

『インターネットに何かを残す、ということは確かに便所の落書きかもしれないし
このブログみたいな、ごくごく小さい規模で地味に続けていくことって
あまり意味がないことなのかも知れないな〜と思うときもあります。

でも、誰に見せるわけでもなく、自分がそのときその瞬間何を思って何を感じたか、という
「極私的・自分アーカイブ」がネット上に残る、っていうのは、何より未来の自分のために
なるのかもしれないなあ、と思ったので、備忘。』(「ブログを書いててよかったとおもったこと - インターネットの備忘録」より引用)

ところで、この記事を紹介していたまなめっち、この人の『定期的に絶望ってやってきませんか。』という問いかけに『やってきません』と一刀両断。(いやいや、まなめっちは切り捨ててはいないと思うぞ)私なんかも定期的に絶望がやってくる人種なんで、定期的に絶望くるっていう人の気持ちはわかるんだけど、まなめっちってば「やってきません」って…んもー、そこが私ら根暗な人間との違いなんだなあと思った。ふと思ったんだけど、まなめっちが絶望を感じる瞬間ってどんな時なんだろうねえ?






2009年11月29日09:51
「ウェブリブログのやり方に不信感を持った ひとりごと-ウェブリブログ」

私もウェブリブログにブログを持っている。過去に書いたエッセイを別の文体で書いて記事をあげるというだけの使い方しかしていないブログだったんで、どんなことになろうとも何も思うところはない。けれど、そのブログをメインにしてやっていってる人にとっては、やはり穏やかではいられないことなんだろうな。ただ、こういうことは、どんなブログサーヴィスでも起こりうることだ。自分で自分の書いたものを守ることは最低限の必要事項なんじゃないかと思う。確か、FC2のブログでも、過去ログのいくつかが自分が削除したわけではないのに勝手に削除されてしまっていたという声を聞いたことがある。それを聞いてからは私もFC2に限らず他のブログでもそんなことが起きてしまうことはありうるだろうなあと思って、書いてはログを保存してローカルで残すというやり方を今はしている。だから、私はサーヴィズ側にモンクは言わない姿勢。ただ、私も昔はサーヴィス側のやり方にぎゃーすかモンク言ってたほうなんで、言ってしまう人のことをどうのこうのとは思わない。そして「言うな」とも言わない。不満は言うべきだという考えもあるからだ。サーヴィス側はそういった客の声を聞くべきだと思っているし、中にはその声を真摯に受け止めて次回に活かすということもあるだろうから、声はどんどん放たれるべき。ということで、私も、自分の考えである「自分のものは自分で守る」という考えを提示する。

ちなみにライブドアブログも私的には使い勝手が悪いんだよねえ。ただ、ガクトさん関連のことをメインにして書いてきて、わりと読まれていることを知ってもいるんで、なかなか切り捨てるということができない。そういえば、ライブドアブログを使うきっかけになってしまったのも、それ以前に使っていた日記サーヴィスが崩壊して、強制的にライブドアに移行させられて、あのときゃ私もぶぅぶぅモンクたれたれをしたんだったよなあ。私はライブドアブログなんて使うつもりなかったんだけど、なんだったっけ、本名とか住所とか登録しないと退会できないとか、そんなことを聞いたもんで、なんだよそれーってなったんだったよなあ。でも、結局使ってみるかーということになって、使い勝手はやっぱりよくなかったけど、結局ずっと使い続けている。もっとも、今はほんとにほとんど更新されることはないんだけど。あそこでしか繋がりのない人だっているんで、やっぱむげに削除ができない状態。URLがあんな味気なくて、ほんとは好きなアカウントを作りたいんだけど、それもできない。あのURLでブロピとか今でも登録してくれている人がいるからねえ。






2009年11月29日10:38
何のために書くのか、それは書きたいからだと書いている人がいた。それは私も同じだ。私も自分のために書いている。公開した場所に書いているからといって、他人のために書いているわけじゃない。これが私には一番楽しい書き方だから書いているというだけに過ぎない。それは今までにも何回と書いてきたことだ。私は自分のために書いている。ただ、誰かに読まれていることは自覚しているんで、まったく読者を気にせずに書いているかといったら、やはり多少は気にして書いてもいる。

『 自己顕示欲ということでいえば強いほうだと思うのだけれど、俺には奇妙なほどに「自分を見てほしい」という気分がない。見てほしいのは自分が書いた文章であり「俺はこう考えている」ということ「そのもの」のほうであって、むしろ俺本体に近づいてこられるのは病的なくらいに怖い。』(「なにを、なんのために書くか」みたいなこと - G.A.W.より引用)

引用した記事を書いた人は「自分を見てほしい」というわけではないようだ。では私はどうなのか。私も自己顕示欲は強い。そして、自分の書いたものは、確かに自分のために書いてはいるけど、それを読んでもらいたいという気持ちも強い。誰かのために書いているわけではないけど、読まれたい。そういった気持ちがあることは否定しない。自分を見てほしいわけじゃないと記事の中の人は言ってるんだけど、自分の考えや文章って「自分」なんじゃないかと私は思ってるんだけど違うんだろうか。そりゃ、提示された考えや書かれた文章で自分をすべて語ることはできないんだけど、それも自分の中の一部ということで、「自分」なんじゃないかと思うんだけどね。もしかしてあれかな、生身の自分を見られることが嫌なのかな。つまり、リアルで会うっていうのが嫌だとか。そういうことなのかな。それなら少しは私も気持ちはわかる。てか、「俺本体」と書いてあったよ。ほんと私ってば読解力ないよなー。

それを踏まえて私はどうだろうか。一応、私もネットで知り合った人と会ったこともある。確かにリアルで接触持つって気を遣ってしまったりと精神的なストレスとか出てきてしまうから、それを感じるのが嫌だというのもあるんだけど、考えてみたら、相手だって同じだよなあって。もちろん、中にはそういったストレスなんて感じない、人と会うのが大好きという人もいるんだろう、初めてでもまったく気にしない、とか。ただ、やっぱりほとんどの人が初めて会うのは多少の緊張やら何やらはあると思うんでお互い様だよなあって。自分だけがストレス感じてるわけじゃないんだってことを忘れなきゃ、二度目三度目と接触持っていくうちに、そのうちに昔からの仲良しさんみたいな関係になっていくことだろうな。そんなふうに思った。

それにしてもこの人、海燕さんが大好きらしい。それは「ぶれない」ところらしいんだけど、私はそんなに彼が「ぶれない」とは思ってないんだけど、だからといってそれが嫌いというわけじゃない。私はどちらかというと「ぶれる人」っていうのは嫌いじゃないから。とはいえ、気持ちはわかる。私も彼の書く文章は好きだから。もちろんすべて彼と同じ考えを持っているというわけじゃないんだけど、彼の考え方とか姿勢とかは好感が持てるし、書かれている考えなども同感なものが多いから。

『 そういえば、余談的につけくわえるんだけど、ついったーの有名な人なんか特にそうだし、真のアルファブロガーまなめさんなんか見てても思うんだけど、楽しそうなんだよね。やたらに。楽しそうにしてる人が「楽しい」って言ったときに、そこに人が集まるのは、まあ必然かなーと思った。

 俺は湿度高いので、湿度高い人たちどうしで今日もついったーで楽しくやってます。』(「なにを、なんのために書くか」みたいなこと - G.A.W.より引用)

そうかなあ。確かに私もこの人と同じく湿度はかなり高いと思うんで、それで言うと私の周りに人が集まらないのもわかるんだけど、この人って私より確実に多くの人が周りにいると思うんだけどね。というか、私はどっちかってーと同種の人たちとつるむのはあんま好きじゃないかも。ついったーでもかなり浮いた存在だっていうのは自覚してるしね。

それと、この言葉。

『俺、引用すごいへただと思った。』

いやいやいや、私に比べたら断然うまいと思ったよ。うん。







画像提供サイト/Pearl Box

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