2009年11月28日(土)09:01
曇り。

昨日は旦那は昼前に帰ってくるシフトだったんだけど、講習会があるから、私が出勤してしまってから帰るはずだった。ところが、いつも通りの時間に戻ってきた。どうやら講習する人がこなかったらしい。で、私もいつも通りに出勤していった。が、仕事場に行ってみたら、仕事ができない状態だった。コンピューターのトラブルで。復旧を待って、いろいろ雑事をやってたけど、それももうやることがなくなってしまい、2時半になってとうとう帰宅してもよいとのお達しが。で、明日出てくれる人は出てきてということに。私はお休みにした。
そんなわけで、昨日は2時半過ぎ、もう3時が近い頃に仕事場を出てプラントに買い物に行き、ゆっくり買い物して家に戻った。また旦那は寝てたんで、テレビなんかはつけずにPC部屋で書き物なんかをしていた。






昨夜は9時からジョニー・デップの映画を録画しておいて、裏番組のマッチのサスペンスドラマ見てた。それを見ながらついったーでかいえんさんとチャットしてたなあ。久々に創作関係の話なんかして楽しかったよ。

もともと、海燕さんが「創作活動と「晒されたもの負け」の恐怖。 - たまごまごごはん」をリンクして、呟いていた言葉に私が反応したことで会話した話なんだけど。それをちょっと時系列にここでご紹介。

海燕『うーん。むずかしい。と思いつつ、ぼくなんかどこにどれだけ晒されているかわからないわけで、けっこう慣れると平気なものだよ?とかも思う。』

私『私も慣れだと思います。だから、晒される経験のまったくなかった年若い人に最初から気にするなと言っても無理な話かもしれないなあと思います。』

海燕『ぼくもネット使いはじめて10年になりますからねえ。ネットが比較的牧歌的だった時代からずっと使い続けているからだんだん慣れてきたのかも。いま突然はじめたひとにそういうのを期待するのは酷かもしれないですね。』

海燕『創作物といえば、きょう、ぼくの公開している小説のウェブ拍手で「うーん、自分で読んでいておもしろいと思いますか?」というコメントがあった。だから気にいらなかったらコメントはいらないといっているのに……。』

私『気に入らないならどこらへんが気に入らないのか、どうすれば自分はいいと思うのか書いてくれたら、私だったら「あら、それもいいかも」とちゃっかり次回作品に使うのになあと思います。もっとも、それやったらまたなんか言ってくるかもしれませんけどね。アイデア提供で名前書けとか。』

海燕『いや、ぼくは気に入らないひとの意見は読みたくないです(笑)。昔は「批判を受け容れて作品に生かそう」とかマジメに思っていたんだけれど、最近はそれはもう無理だろうと。知り合いの批判ならともかく、知らないひとの批判は受け手にとってあまり価値がないと思いますね。』

私『いやー、それもかいえんさんが多くの人から感想をもらえるからですよ。私なんてまったくもらえませんからねえ。だから、ついネガティヴなのもほしいかなって。もちろん、意味のある批判限定ですけれど。でも、気に入らない人のはほしくないっていうのはそれでいいと私も思いますよ。』

海燕『ぼくも昔は感想ほしいなあ、と思っていたんですけどね。1日20ヒットの頃ですね。最近は「目」を信じてる知り合い以外の意見はいらないかなーと思いますね。ひとそれぞれでしょうが。』

私『あれですよ。いいものが書けるのならどんなスタイルでもいいということです。自分にとってはどうあることが一番いいものが書けるか、それだけだと思いますね。』

海燕『自分が楽なスタイルを選べばいいんじゃないですかね。無理に辛い方向に行ってもあんまり長続きしないと思う。師匠とか尊敬する読み手とかがいたらそういうひとの評価は甘んじて受ける必要があるだろうけれど、雑然とした大勢の意見は無理に受け容れる必要がないんじゃないかと。』

でまあ、この海燕さんの発言に対して私は「同感です。ほんとそう思いますね。」と返したんだけど、実はちょっと違った考えも持ってたりするんだよね。長くなりそうなんで、そろそろ私も寝る時間だったということもあり切り上げるためにそう返したんだけど。とはいえ、同感だという考えももちろん持ってたんで自分の気持ちに嘘をついたわけではない。ただ、『師匠とか尊敬する読み手とかがいたらそういうひとの評価は甘んじて受ける必要があるだろうけれど、雑然とした大勢の意見は無理に受け容れる必要がないんじゃないか』という海燕さんなんだけど、それは確かにもっともだよなあとは思うんだけど、でも私は師匠とか尊敬する人の評価が絶対だとは思っていない人間でもあるんだよね。それはもうガクトさんを尊敬するようになってから思うようになったことでもあるんだけど。尊敬するガクトさんではあるんだけど、この人ってけっこう「それはちょっと違うだろ」というようなことを言ったりしたりするところがあるんで、尊敬できるところもあるんだけど、ガクトさんの言うことすべてを肯定することはできないなあと、たとえ尊敬する人でも「それは違う」と思うことは受け入れられないこともあるって知ったからねえ。確かに、雑然とした大勢の意見をすべて受け入れる必要はないけれど、それは尊敬する人の意見だって同じこと、すべて受け入れる必要はないと私は思っている。まあ、海燕さんだってそこらへんのことはわかってはいると思う。「自分が楽なスタイルを選べばいい」と言ってるわけだから。私は、雑然とした意見からだってけっこういいものを拾ったりすることもあったりするし、尊敬する人だっていつもいつも自分の考えに副うような意見を言っているとは限らないよなあって思ってるんだよね。それに、私は、雑多な意見をできれば聞きたいほうでもあるんだよなあ。私は自分なりの創作スタイルじゃないといいものを書けないところがあると自覚しているから、私にとっては様々な声を聞くのが自分にあったスタイルなんだと思う。

だから、海燕さんと私の創作スタイルはちょっとだけ違うというだけなんだよね。

だって、つまりは、海燕さんが言う「ひとそれぞれ」とか「自分が楽なスタイル」とか、そういうことなんだよね。結局は私もそれが言いたいだけなんだ。その点では海燕さんと私の考えは一致していると思うんだけど。他人にとってのいい作品にしても、自分にとってのいい作品にしても、つまりは「いい作品」を作るために自分は「これでいく」でいいわけで、それが、人によっては大勢の人たちからの様々な意見、その中には批判ももちろんあるんだけど、そういったものに耳を傾けることで気づかされる人だっているし、そういったものを受け入れることではいいものを作れない人は、気の許せる人だけの声でいいものを作り出せばいいということ。そのどちらが正しいか悪いかなんてことは誰にも決めることはできないんだって。私なんかはどちらかというと様々な声を聞くことで自分の作品に活かせるタイプだから、昔はそういったタイプが本当の創作者なんだなんて豪語していたところがあるんだけど、今ではそれは違うなあと思うようになった。どんなスタイルであっても、生み出された作品が、自分にとって、あるいは第三者にとって「いいものだな〜」という声がひとつでも出てくるのだとしたら、その創作者はそのスタイルが「正しい」と言えるんだなあって。だから、他人が他人のスタイルを「それは間違っている」とは言えないんだってね。「自分はそれとは違うのがいいと思っている」と言うのはいい。けれど、「あなたのスタイルは間違っている」とは決して言えないんだってことなんだよ。私はそんなふうに思うようになった。そして、それは間違った考えなんかじゃないって思うんだけどねえ。






2009年11月28日19:53

『そんなうれしさを受け止めれるほどの現実への対策活動をしていないからだ。対価が必要だ。今までも何回もうれしいことたのしいことはたしかにあった。そのたびにそれらに感謝してそろそろがんばろうと思ってきた。でも、結局がんばれなかったのがこの結果だ。そして明日も同じ日々が始まるのかと思うと自分を消したくなる。自分を無視したくなる。』(「2009-11-27 - ReLife」より引用)

あるとないとっちとはまったく状況は違ってた、私の時は。ただ、引用した箇所もだけど、そこまで至る文章を読んでいても、今から4年前の私のことをありありと思い出してしまったんだよね。あの頃のことはmixiでもさすがに正直な気持ちはは書けなかった。だって、書いたってどうしようもないことだっていうのはわかりすぎるほどにわかっていたことだから。きっと今の自分の正直な気持ちや状況を書けば書くほど惨めになって、そんな私を購読してくれてる人たちに見せたくないと思っていたから。だから、あまりにもネガティヴなことはドリコムで吐き捨てていた。そのドリコムももうすぐ終わる。私の呪詛の塊であるあの文章たちも消えていく。きっとそれでいいと思う。とはいえ、ちゃっかりログ残してしまったんで、呪詛以外の体調関係のことはいずれは過去ログにひっそりと追加しておくことだろうな。あんな酷い書き捨て記事でも、読み返すことで救われたこともあったから。これからも、似たような状況になった時に読み返して救われるためにも過去ログに残しておこうと思ったから。

仕事に出たくなかった。いや、正直な気持ちは別に仕事をしたくないということではなかった。ただ、私は行動ができない奴で、すべてお膳立てしてくれて、その場所まで連れてってくれるなら、という、とても人に聞かせられるようなことを思ってなかった奴だった。もともと以前の仕事だって、友人が見つけてきてくれて、一緒に受けようと申し合わせて受けた会社だったし、しかも、面接場所がわからなくて、会社の近くをウロウロしているところを偶然通りかかった友人が、私の代わりに面接場所を会社の警備の人に聞いてくれ、そこまで連れて行ってくれたという体たらく。それは、仕事を辞める場合もなかなか自分では言い出せないということもあり、ズルズルと12年だったか働き続けた。でも、もう続けられないと切羽詰ったところでやっと何とか自分から「仕事辞めます」と言った時は、自分だってけっこう言えるじゃんと思ったものだったけれど、仕事辞めて社会から隔絶された9年近くでまた変化に向き合うことができなくなっていたんだ。2005年秋、追い詰められた私は仕事に出なければならないと思いつめ、けれど、行動ができずに「いっそ死にたい」とまで思うようになっていた。頑張れ、頑張るんだ、ガクトさんに誇れる自分になりたいんだろ、旦那だけに苦労させている自分が情けないと思ってるんだろ、もう自分は作家デビューなんてできないんだ、そんな夢みたいなことばかり言ってないで、自分が一番果たさなきゃならない夫婦としての役割をやらなきゃいけないんじゃないのか……子供の頃からいつか作家になると思ってた。自分の文章がうまいとは思ってなかったけど、それでもお話を作ることは得意だったし、それを友達もおもしろいと言ってくれたし、高校の時にも私の書くものを素晴らしいと褒めてくれる先生もいたし、高校の先輩が「おまえはいつか何かでっかいことする」と言ってくれたこともあったし、なにより高校業した頃、短大時代にとある同人に投稿した詩が佳作になって同人誌に掲載され、それから何度も同人として創作活動をしないかと誘われ続けたことでも、私ってもしかして才能があるのかも?と勘違いをしてしまったものだった。だから、短大を卒業する頃には就職するという気持ちがあまりなく、友達が見つけてくれた仕事も正社員ではなくパートとして入社した。いつか作家になって寿退社(意味違う)するんだと意気込んでたから。でも、仕事始めだしたら、投稿用の小説はおろか、日記さえも書けないくらいに時間を作れないようになってしまったんだ。夜遊びを覚えてしまったから。そして、すぐに旦那と付き合いだして、何か書くなんてことは無理となっていく。つまり、あの頃からすでに私の書くスタイルというものが決まってしまってたんだなあと思った。私はリアルが充実していると何も書けない。私の書き物の原動力は「不幸」だったから。何かから追い詰められたり、傷付けられたり、生きていたくなかったり、恋に破れたり、手に入らないものに憧れたり、行きたい場所にいけなかったり、究極、物語のような生き方ができないから、その代わりに物語を書くことで自分の欲求を満たしていたからだ。そんな私が楽しい日々を送っていれば何も書けるわけがない。子供の頃は宇宙を旅したかった。だから宇宙に出て行く話を書いた。好きな人とうまくいかなかった。だから好きな人とうまくいく話を書いた。そんなふうに叶わぬ夢を物語に託していた。今の私は叶えたいという夢がない。いや、まったくないわけじゃない。けれど、それは私の心がけしだいで叶わないものじゃないと実は思っている。だから、今の私は強く叶えたいと思う夢がないんだ。もしかしたら、私はもう自分の夢を叶えるための物語は書けないかもしれない。そんなふうに今は思うようになってきた。

今の私は仕事が楽しい。仕事を初めてからしばらくは、やはり人間関係で仕事を続けられないくらいに追い詰められていた。けれど、あるきっかけで楽しく仕事ができるようになった。それは以前やってた仕事でもそうだった。以前の仕事は今の仕事とは違って客商売だったから、事務で仕事をしていたとはいえ、売り場で客相手をすることもあった。でも私は売り子が一番苦手な職種だった。それはたとえばスーパーなんかのレジでの仕事も私にはダメだったろう。あれもレジ打ちをしていて何かのトラブルが起きた場合に私は臨機応変に対処ができない。事務の仕事でも取引相手や客からの電話でいろいろと対応しなくてはならないということもあり、そういったことも対人関係に問題のある私には無理なことだった。私が一番楽しく仕事できたのが、事務でも伝票の内容をコンピューターにひたすら打ち込んでいくというものだった。今の仕事もそれと似たような仕事なんで、こういった仕事は私にとって天職だと思っている。で、以前の職場では、その仕事をずっと続けていくことができなくなったので、それもあって辞めたということもある。今は、職場での人間関係を気にしなければ、仕事自体は楽しくてしかたない。だから、今の私の仕事ぶりはかなりのものになった。最初の頃のミスばっかりだった私とは思えないくらいだ。楽しく仕事してお金がもらえる、こんな嬉しいことはない。そして、こんな幸せなことはない。そんな私だ。自分を救う物語なんて書けるわけがない。きっと、書けないのはそのせいじゃないかと思ってしまってもしかたないと思う。

でも、今の私はそれでもいいかなとも思う。このままずっと平穏に暮らしていきたい。もう4年前の私には戻りたくない。すべてを呪って呪詛ばかり吐き捨てていた私には。もう絶対に戻りたくない。もちろん、戻らないという保障はない。人生浮き沈みはどうしてもでてきてしまう。いずれ、また落ち込む時期もくるんだろう。ただ、できれば、その落ち込みの時期を何とかやり過ごす心の強さを手にしたい。それだけを今の私は願っているかな。

いやー、ほんとにまったく言及になってないや。やっぱリンクなんてするんじゃなかったかな。(苦笑)







画像提供サイト/Pearl Box

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