2009年11月18日(水)07:28
曇り。

昨日の天気予報では今日も雨だったんだけど、今は降っていない。もちろんここも降ってはほしくないんだけど、今日明日と岡山のほうも降らないでほしいよなあ。今朝は7時半まで息子が使っているブログサーヴィスはメンテナンスで息子の様子は見れないんだけど、昨夜確認したところ、夕方5時半くらいに岡山について旅館に入り、息子入れて4人の受験者が同じ部屋に泊まるらしいとのこと。消灯が9時半くらいで、寝れるかなーとぼやいてるところだった。あれから寝れたのかな。寝不足でなんかポカしなきゃいいけど。あー心配だ。(><)

私の仕事はというと昨日は5時まで。ずっと雨だった。買い物も、息子がいないから、ほとんど酒のつまみだけで、たいした買い物はしなかった。まあ雨だからそのほうがいいんだけど。昨夜は一人で飲みながらこの間録画しておいた「東京DOGS」を見た。その後、ネットしつつ途中からドレミファドンを見ていたんだけど、前半はどうだったかわからないけれど、やっぱりガクトさんの歌は一曲もでず、ガッガリ。というか、ドレミファドンみたいな番組はやっぱり息子と一緒に見ると楽しいのになあ。中には解答者よりも早く答えられる曲もあったけど、それはごく少数。これでもしガクトさんだけの曲だったらパーフェクトだったのに。いや、それじゃ問題にならないし。(笑)その後、9時過ぎから風呂入って、洗濯が終わるまでネットして、10時半くらいには寝た。ほんとは10時頃に寝るつもりだったけど、久しぶりにガクトさんファンの人のとあるブログを読んでたら、これがおもしろくてついつい読みふけってしまってねえ。この人、どちらかというとガクトさんに辛口目線の人なんだけど、書いていること読むと、こういった人が一番健全なファンだと私は思っているんだよね。

それにしても、できれば私も高校中学の頃のそのものの制服着て参加したいものだけど、こればっかりはDearsさんじゃないと参加できないイベントだもんねえ。それだけでも、確かにDears入りたいよなあとは思ったよ。ただ、制服のことも「できれば」という気持ちくらいしかないんで、さすがに私の制服姿は犯罪になってしまうから(笑)、たとえDearsに入ってたとしても、それはできないことだと思う。でも、脳内だけでの妄想ならいくらでもできるんで、私は頭の中で楽園祭を楽しもう。(w






2009年11月18日18:36
息子君、第二夜目は個室に泊まるらしいのです。昨夜は息子含めての4人部屋で、落ち着かなかったようですねえ。今日のお昼も食欲なかったみたいだし。さきほど更新された日記ではこんなことが書かれていました。

『正直言うと、同僚とやっていけるか滅茶苦茶不安です

何せ、僕と相反する人たちなんで……

でもまぁ……頑張るしかないかぁ(・ω・`)』

昨夜同室だった三人は喫煙者らしいので、たぶん息子より年上なんでしょうね。息子は徹底した嫌煙家なので、だいぶつらかったみたいです。
それにしても、対人関係に関しては息子は私に似てしまったところがあるんで、私も一番それが心配でした。子供の頃からそれはわかってはいたんで、できれば人間関係をもっとうまく取れるようにと思ってはいたんですが、これもね、どうやってうまく取れるようにしてやれるように導いていくかなんて、私自身が一番苦手な分野だったので、やっぱりうまく導いてはやれませんでしたからねえ。無理強いはできなかったし。あとはもう自身で何とかしていくしかないと思うんですが。私自身がそうやって今の会社でも何とかやっていけるようになったわけですから。

息子には頑張ってほしいなあ。何とか自分の力で






2009年11月18日20:41

『世界中ぜんぶが生きることを許してくれてるんだってね─』

この言葉は引き続き読んだ紫堂恭子さんの「グラン・ローヴァ物語」の4巻に出てくる言葉だ。人間は愚かであり、これからもずっと愚かであり続けることに絶望した者が、こんな自分など生きている価値もない、自分一人が死ぬことで世界が救われるのなら自分はいなくなってしまったほうがいいのではないかという言葉に対して、どんな馬の骨であっても生きたっていいと賢者は言う。その理由に、人間に食べられる存在である魚や鳥は人間を恨んではいない。それはいい人間だろうが悪い人間だろうが関係なしに食べるのを許してくれているのだからだと。すなわち、それが世界に許されたからということなんだそうだ。それがどんな人間であろうとも、と。そういう考えは私も好きだ。人が生きているのは世界が生きることを許してくれているからっていうのは。ただ、この考えは一方的であって、本当に魚や鳥や動物が私たちに食べられることを許してくれているのかは断定はできないよなあとは思う。もし、人間と同じような思考能力を持っていて、話せたりしたとしたら、彼らはどう言うのか、なんていうのも想像しちゃうこともできるからねえ。けれど、彼らに人間のような思考があるのかどうか、それはわからないんで、食べさせてくれていると思うしかない。あと、世界が私たちに生きることを許してくれているから、だから生き続けているんだっていうのも、裏を返せば、人間が滅びることがあれば、それは世界が私たちの生を許さなくなったからだとも言えるわけで。だから、どんなに環境破壊を食い止めようとしても、それが止まらずに私たちはいずれ滅びる。世界が許してくれなくなったから、だから人々は環境破壊へと突っ走っていくんじゃないかと。でも、ここでもうひとつ、環境破壊のせいで人間や動植物が生きていけない世界になったとしても、突然変異でその破壊されてしまった世界でも生きていける生物に進化していくということもないわけじゃない。それもひとつの「世界に許された」ということでもあるよなあって。

つまり、何が言いたいかというと、結局は生きているというそのことがどんな形であれ、生きてることこそが、何かから許されているのだということなんだ。許されたから生きている。許されなかったらそもそも存在しないし、死んでいくんだろうなって。まあ、いずれは人間は死ぬ。一人一人は。一人一人の生きることを許された期間はごく短い。だから、せめてその短い時間だけは、生きるべきか死ぬべきかなんてくだらないことなんて考えずに、今この瞬間を一生懸命生きるべきなんだ。そうは思わない?私はそう思ったから、今を楽しく生きようってなったんだよ。確かに、時には辛くてしょうがない時もある。そんな時は全てを呪う私になってしまう。死にたいって思うこともある。けど、それはその時を何とか生き抜くための方法なんだろうって今は思う。またいつか楽しく生きていくための。だから、そんなマイナスなときはとことんマイナスに生きて、ギリギリ死なないようにする。いつかまた楽しく生きていけることを夢見て。それが人間っていうものなのかもしれない。人間が今ここに存在しているそのことこそが許されているということなんじゃないかなあ。許されているから存在しているんだって。だからもう何も考えずに生きる。それが一番自然な生き方なのだろう。って、私はそう思ったよ。







画像提供サイト/Pearl Box

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