2009年11月07日(土)07:07
晴れ。

昨日の仕事は5時まで。今日はお休み。でも、息子は課題研究のために普通に学校行くからいつも通りに起こしてくれという。そろそろ起こさないとね。






昨日は梓さんの旦那さんの日記を確認したところ、gooのブログでも書いた、ジャズ奏者である梓さんの追悼番組のURLが変更になったということで、今朝はそのリンクを変更するためにログインしてみたんだけど、あまのじゃくブログのアクセス数って、それなりにあるんだなあって思った。たいした数じゃないけれど、それでも毎日70前後のプレビューがある。まあ、あれだけの過去ログを抱えているわけだから、検索だのでアクセスしてくるんだろうけれど。でも、芸能人とか漫画家とか小説家などの名前や作品名をづらづら並べててもそれだけのアクセスしかないというのも軽く凹むよなあ。まあしょうがないんだけど。それだけのもんしか書いてないってことだから。






2009年11月07日09:18
紫堂恭子さんの「辺境警備」を読んでいる。これで何度目だろう。蔵書の中でも何年かごとに繰り返して読み返す本があるのだけど、この「辺境警備」もそのうちの一作品。それはやはりその作品が好きだからなんだけど、それなのに好きなはずのその作品の内容をほとんど覚えていないというのも、自分でもどういうことだと思ってしまう。それだけ私はバカなのだろうかって。まあ確かにバカではあるんだけど。(笑)ある程度「こんな感じ」っていうのは覚えてはいる。けれど、細かい内容は覚えていないから、毎回初めて読むみたいに感動したりわくわくして読み進めたりするわけだ。とはいえ、まったくの初めてというわけじゃないから、所々覚えているところもあったりする。だから、本当に初めて読むというわけでもない。でも読み返すのは楽しい。そこらへんが、一度読んだものをまた読んでしまってガッカリしたという人より恵まれたところなんだろうなあ。私にはそういうまた見てしまったというガッカリ感など抱いたこともないのだから。

またしても前置きが長くなってしまった。

「辺境警備」の4巻に同時収録された物語がある。これもまた記憶に残っていなかったものだった。タイトルは「海から来た星たち」で、コミュニケーション能力抜群な少年とそうじゃない少年の二人の友情を描いた作品。作中で友達についてこんなことが書かれてあった。

『恋人のように告白してつき合うわけじゃなく、夫婦のように誓約を交わすのでもなく─名前を呼び合ったり、他愛もないことをしゃべったり─ただ、ほんの少し心を開いてくれればもう、それだけで』

心を開くだけで二人は友達になれるというのが本当ならば、私に友達ができないのもなんとなくわかるかなと思った。私は自分のことはかなりどんなことでも喋ってしまうので、心を開いていると自分でも思いがちだったのだけど、いくら自分のことをいろいろ喋っているからといっても、それはたぶん本当に心を開いているということじゃないんだろう。現に、私の場合の喋りは、こういった不特定多数の場所で文字で喋るということでもあるし、コメント欄だのを開放していないこともあり、誰かと対話をしたいというわけじゃないのだから。これは心を開いているとは言えないのじゃないかと思った。そんな相手と友達付き合いしてやろうなんて思う人も出てくるはずもない。よって、私には友達はできないし、対話を望んでないということで、私は友達を作りたいとも思っていないということなんだろう。そんな私が、友達ができないだの、誰も私を好きになってくれないだのとは言えないんじゃないだろうか。

誰も好きになってくれないというか、厳密に言うと、私の場合は誰かに好きになってもらいたいじゃなく、私が好きな人に好きになってもらいたいっていうのなんだけど、そりゃもうこんなだから、自分が好きになる人だって私のことを好きになってくれるはずもないわけだ。たぶん、子供の頃から私が好きになる人が私を好きになってくれなかったのも、私が本当は相手を好きだと思ってなかったからなんじゃないかなあ。ただ、どうなんだろう。私はやっぱりこの気持ちは好きだと思うんだよね。相手のことは気になるし、嫌われたくないとは思うし、一緒にいたいとは思うし、その人の話は聞いていたいし、その人が興味あるものだって私も興味持ちたいと思うし。それを好きということじゃないとはどうしても思えないんだよね。けれど、どうしても好きな人には好きになってもらえない。なんでだろうって理由がそこにはほしいとどうしても思ってしまうんだよね。

と、ここまで書いてて気づいたことがある。最初は「心を開いていないから」なんじゃないかと思った。私は心を開いているつもりだった。それは自分が正直に自分の考えや思いを喋っていることがそうなんだと思ってた。何も言わないよりも自分のことをいろいろ喋ることは心を開いていることなんだって。けれど、それは、本当は心を開いてたわけじゃないのかもしれない。いや、そうじゃない、そうじゃないんだ。心は開いてるんだ。むしろ開き過ぎているのかもしれない。人には受け入れられないものがある。嫌悪感を抱いてしまう考え方や嫌いな性質、そういったものが一人一人あって、それを相手が持っていると知ってしまったらどうしても友達にはなれない。そして、不幸にも、私は、私の考えや性質が嫌いなタイプの人しか好きになれなかったということ。そんな人ばかり好きになるから、どうしたって私の好きな人は私を好きになってはくれない。今まで一度だってそれを乗り越えて両思いになったことなんてなかった。とはいえ、まったくなかったということでもないのだけど、ことごとく関係は壊れていった。それはもちろん、私が悪いからなんだろうけれど。私は相手に合わせるということをしない、できない人間だから。いつでも私は相手に合わせてもらってる人間だから。そんな付き合いが長続きするわけがない。

よって、私は独りでいるしかないんだ。努力をしたくない私にはそれしか生きる道はない。

けれど、その生き方を心から受け入れているというわけでもない。だから、苛まれる。だから、愚痴ばかり書いてしまうことになる。たとえばガクトさんあたりなんかは「本気で変わりたいなら変われる」とか言うんだろうけれど、そして、私もそれは本当にそうだとは思っているし、他人に対しては「本当にそういう生き方がイヤなら変わればいいし、変われるはずだ」とは言うだろうけれど、自分のこととなるとやっぱり変われない。いやだと思うんなら独りの生き方はやめればいいのに、それができない。他人には言うくせに。それが私だ。言うことと実行が伴わない。ろくでなし。そりゃ好きになってはもらえないはずだ。好きになってもらいたいけれど、自分を変えたくない。こんなろくでなしでも好きになってほしいとだだをこねる、最低最悪な人間。でもね、私が自分を変えようとしないのにも理由があったりする。こんな私でも好きになってくれる人はいるんだよね。変わってないという人もいるだろうけれど、自分でも気がつかないところで自分はどうやら少しづつ変化してるみたいで、そういったところをちゃんと見ててくれる人はいるんだ。そういった人がいるから、私は変えようとして変わろうとは思ってない。つまり自然に変わっていくのをあるがままに受け入れているという。なんかもうほんと都合のいいことばかり言ってるような気もするんだけれど。でも、それが真実なんだと信じている。そして、この私を好きだと言ってくれるのが、私の横にいる結婚20年目の旦那、なんだよねえ。もともと旦那だって、私が好きになってというわけじゃなくて、旦那のほうが私を好きになってという経緯だからなあ。だから、やっぱり私は私が好きになる人とは一度だってうまくいったためしはないわけだ。つまり、結局は私の場合、私から好きになる人とうまくいこうなんて考えること自体が無駄なことなんだろうな。その人にはその人なりの正しい生き方っていうのがあるわけで、私の場合は、自分を好きになってくれる人だけのことを考えればいいということなんだって。それが私の正しい生き方なんだろうな。

私を好きになってくれる人、その人を大切にすれば、私はきっとこの世で一番幸せな人間になれるんだ。それはきっと間違いない。


……それでもやっぱり私は好かれることじゃなく好きになることに喜びを見出す性質でもあるんで、結局は好きな人ができては拒絶されて悶々とした日々を過ごすことになるんだろう。もうどうしようもないね。(苦笑)






2009年11月07日10:04
泡沫か永遠か、どちらにも価値はある、ねえ、そうじゃない?


泡沫は舞台のことで永遠はDVDのことなんだけどね。そのことはまた後ほど出てくる。


ところで、DearsサイトのPLATINUM BOX ](10)のCMのバックに流れている曲が「君が追いかけた夢」で、かなり嬉しく思っている私なんだけど、やっぱりちょっと手が出ない。あれかな、20周年でまた廉価版出してくれるといいな。って、そんなに続くのかしら。(あら、天慈さん、それはひどい言い草というものよ(爆))てか、廉価版のことを書いたついでにY(6)のパッケージ後ろに書かれたDVDの内容なんだけど、「君のためにできること」と書かれていた。でも、そのミュージックビデオは入ってなくて「君に逢いたくて」が入ってた。これってただの印刷ミスだとは思う。内容は変わりないと思うんで。あら、まるで重箱の隅をつつくような行為。いけずな天慈さん♪

と、まあまたしても前置きで遊んでしまったのだけれど。(笑)

えーと、ガクトさんが舞台することになったそうで。眠狂四郎を舞台でやるそうな。おおー眠狂四郎ですか。それはガクトさんにピッタリな配役だよなあ。

ところで、舞台といえば梓さんも生前は舞台を手がけ、作家であると同時に舞台をやってたということで、それでいろいろ口さがないことも言われたことがあったようなんだけど、ガクトさんもいろいろ言われるのかな。もっとも、ガクトさんの場合は梓さんみたいに舞台を自分で作るというわけじゃないみたいなんだけど。あくまで演じる人間として出るってことなんだろうし。もちろん、ガクトさんのことだから、役者だけやってるというわけじゃなく、いろいろ口出ししてくるとは考えられるんだけど、それでも、自分が一から作り出す舞台というわけじゃないだろうし。でも、歌手である本業じゃないことをやってるという点で、いろいろ言われることだろうし。やっぱ梓さんと似たようなタイプな人だよなあ。やりたいことがたくさんあるタイプ。それにしてもニュース記事では体重を落とすと書かれていた。確かに狂四郎ってマッチョからかけ離れたタイプだろうからなあ。あーあ、けっこうあのマッチョなガクトさんが好きだったのに。残念。(笑)

とまあ、そういったことが語りたかったわけではなくて、舞台というキーワードでいろいろ物思うことがあってね。

今の子供たちは学校とかの行事で芝居とか舞台とか定期的に見に行くっていうのはあるんだろうか。息子が小学生とか中学生の時はそういうのあまりなかったような気がする。でも、私が子供の頃ってほんといつもなんとか座とかの芝居とかを市民会館でやってて見に行ってたんだよね。あと、私はピアノを習っていた関係で、よくミュージカルも見に行ってたし、クラシックのコンサートもよく聞きに行ってた。だから、私も生の演奏だの舞台だのっていうのは見るのは好きだし、できれば見に行きたい人でもある。ただ、最近ではそういうのがこっちでやることって少なくなってきているような気がするんだよね。米子のほうではよくやってるようなんだけど、歩いてでも行ける市民会館でしょっちゅうそういうのやってくれれば、行きやすくていいんだけど、そういうのやってる感じじゃないし。今は仕事とかもしてるわけだから、なかなか空いた時間で見に行くこともできないしねえ。

そんなわけで、見に行きたくてもなかなか見に行けない。本当に見たいならどんなことをしてでも見に行けるはずだとか言われるかもしれないけれど、それはそうだとしても、米子くらいならまだしも、距離が離れれば離れるほど気軽に行けるわけじゃあない。距離が離れれば、時間だけじゃなくお金もかなりかかるわけだから、やっぱどうしても不公平感は出てきてしまうのはしかたないことだし。たとえばガクトさんの今度の舞台にしても、プレミアムだと三万するわけで、私が見に行こうとしたら、交通費がプラスされる上に宿泊もしなくちゃならないってことでその費用まで入れたらどれくらいになることやら。10万近くはしてしまうことにもなりかねないよねえ。だから、しょうがないので、DVDにしてくれるならそれでカンベンしてくださいってことにもなる。映画にしても、今の私ではなかなか行けないわけで。昔、友人にも本当に見たいと思ってたら見に行くはずだとか言われたけれど、やっぱネックなのが交通費なんだよなあ。歩いていける場所でやってくれたらってどうしても思ってしまう。ここ境には映画館なんてないんだから。やっぱここでも不公平感。それならDVDになった時におうちで見るよってなるんだ。本当は大画面の劇場で見たい人なんだよ。けど、それは今の私にはできないわけだから。

だから、できれば、梓さんの舞台もDVD化してくれれば買って見たいものだけど、そういうことは無理だろう。DVD化になるのも映像が残ってないとできないし、それに販売するのにも資金が必要だしね。まあ、ガクトさんの舞台はDVD化しても売れるとは思うから、もしかしたらなる可能性もあるだろうなあ。そしたら買うよ。それくらいなら私にも出せる値段だと思うし。ということで、舞台のDVD化、今から待ってまーす。(いつものように他力本願)

ということで、泡沫イコール舞台で、永遠イコールDVDというお話でした。ちゃんちゃん。(笑)







画像提供サイト/Pearl Box

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