2009年10月17日(土)07:41
曇り。

今日は結婚20周年記念日です。旦那は昨夜出勤していって今朝戻ってきました。寝床に入ったのは7時前。5時半くらいからひぐらしを見ていたらしく、音が気になって私は眠れませんでした。今朝はちょっと頭痛してます。さっきご飯食べたあとに鎮痛剤飲んでおきました。

昨日の仕事は4時半まで。5時で帰れるかなあと思ってたら、けっこう早く帰れて助かったな。

息子は明日は試験ですけど、受験票には顔写真をはらないといけないんだって。まったくもう、今頃そんなこと言うか。受験票きたのだいぶ前でしょうに。明日は旦那が行きは送ってくれるんですけど、私は草刈りだ。小雨決行だから、雨だけはカンベンしてほしいな。天気はあまりよさそうじゃないんだけど。






梓さんの旦那さまが多くの方からアプリのお誘いをもらっていて、それについてお断りをしている日記を読ませてもらったのですが、その中でこんなことも言っていました。

『 でも、それとは別に、だんだんとコンピュータがらみの娯楽について考えてしまうようになりました。というのも、コンピュータを使う場合、インターフェースは基本的にディスプレイとキーボードになります。私はなにしろひどい悪筆なので、パソコンの出現はほんとうに福音ではあったのですが、でも、最近になっていろいろと考えてしまいました。

 手で字を書く作業って、、ものすごくデリケートというか指を微妙に動かす作業です。このおかげで、神経回路にとってなにか大事なトレーニングが出来ているのではないかという気がだんだんとしてきました。

 そうして、万年筆を買って、ペン習字の本を買って、ペン習字を練習しはじめたのですね。そうしたら、なんとなく見えてくるものがあって、人間はやっぱり動物であり、動物としての機能を忘れてしまうとどこかに欠陥が生じてしまうのではないかということです。』

ついったーでも以前の私は手紙をワープロで打ち出して送っていたということを書いたのですが、考えてみればそういったワープロ手紙を書くきっかけとなったのが梓さんへの手紙だったなあと思ったんですよね。長文だから、手が疲れたり、字がさらに汚くなったりして、それで相手が読めないと困るからっていうか、そんな汚い字を書く自分が恥ずかしいからとワープロ書きにしたわけですが、たぶん、ワープロ書きをするようになったからどんどん長文になっていったというのが真相ではないかと思ってます。つまり、今までだったら、手が疲れるから垂れ流しの文章を書くってこともなかったけれど、ワープロで文章を書くことに慣れてしまって、この夢のようなアイテムのおかげで好きなだけ大量の文章を書くことができるようになったというのが、長文になってしまった真相なんだと。
私はゆっくり丁寧に書けばそんなに汚い字ではないと思います。現に、子供の頃に書いていた日記では自分で見ても「キレイだなあ」と思う字で書かれている時もあったんですよ。もっとも、ずっと同じ文字ではなく、汚い字で書かれている時もありますけれど。ただ、私がだいたいにおいて汚い字になってしまうっていうのは、のりにのって書き飛ばしている時のようなんですよね。ゆっくり丁寧に書くとキレイに書けるみたいですから。だけど、こんなふうに思考と同じ速さで打ち込みができるキーボードっていうのはいくらでも湧いて出るみたいなんですよ。手書きよりも。それが私にとってはたまらなく楽しい。今まで手書きでまどろっこしい思いをしていた私ですから、こんな楽しいことはないわけです。

梓さんの旦那さんは動物としての機能というように手書き神話を言っているようですが、指を思考と連動させて動かすこのキーボードでの文章書きも、その動物の機能とは思えないんでしょうかね。確かに、指を微妙に動かす手で書く作業っていうのがより一層の神経回路へのトレーニングとなりうるんでしょうけれど、私はキーボードで指を踊らせるのも神経回路へのトレーニングとなるんじゃないかなと思っています。なんか、キーボード操作もボケ防止にいいと聞いたこともありますしねえ。だから、梓さんの旦那さんの言われることももっともだとは思いつつ、キーボード操作も否定はしてほしくないなあって。まあ、彼は否定しているわけじゃないんですけどね。ただ、自分の趣味はキーボード操作ではないと言っているだけに過ぎないんですけれど。

私はこのキーボード操作で文章を好きなだけ繰り出すのが唯一大事な趣味だということです。私にとって一番楽しいこと、それはこんなふうにキーボードで好きなだけ書きたいことを書くことなんですから。
だけど、それにはやっぱり触発される何かを読まないと最近では書けなくなってきているというのも、やっぱもう若くないんだなあと身にしみてきたような気がしますねえ。まあ、昔から触発される何かを見聞きして大量に吐き出してきたわけですから、いまさらなことではあるんですが、昔はそれにプラスほかにも聞いたもらいたい自分の考えや気持ち、体験などもあったわけです。でも、今はプラスっていうのはなかなか出てこないみたいです。さすがの私も自分の体験などはまったく波乱万丈じゃないんで、これ以上は逆さに振っても出てこないということなんでしょうね。あとはもう妄想を小説として書くだけなんでしょうけどねえ。でも、そっちのほうも何を置いても書きたいという強い欲求が出てこないみたいで、なんか焦るというよりもあきらめみたいな気持ちが出てきているような気がしないでもないです。これってやっぱり年を取ってしまったということなんでしょうか。たまに強く「小説書きたい」と思う時もあるんですけれど、それの欲求が持続しないんですよ。結局ダラダラ他人にとってはどうでもいいようなものしか書いていないという…もちろん、自分にとってはどうでもいいとは思ってはないんですけれど、他人はそんなもの読まされたいとは思わないでしょうしねえ。まあ、なるようにしかならないと思うようにしないと、書くことそのものがイヤになってしまっても困ります。私にとっての趣味は「書くこと」だけなんですから。これがイヤになってしまったら、私の楽しみはなくなってしまうわけで。だとしたら、書くことがずっと好きでいられるように自然体で行くしかないですもんね。

と、そんなことを結婚20周年の今朝、思いました。20年前の今日、私は旦那さんと結婚したのです。あれから20年。長いようで短かったなあ。今でもあの日のことはよく覚えているし、あの時の気持ちはまったく変わってない。式場で見た虹もよく覚えているし、次の日、ホテルの窓から見た外の景色も忘れていない。そして、その後、仙台へと新婚旅行に行ったことも。新婚旅行先で写した写真で微笑んでいる私は、後に息子を出産してすぐに手術をすることになることも、長年勤めた会社を辞めて執筆活動することも、別の会社で働くようになることも、引越ししてネットをするようになって、全国に知り合いができるようになることも、ガクトさんにここまでのめり込むようになってライヴに息子と一緒に行くようになることも、昔の会社で一緒に働いていた人が何人も死んでいくことも、そんな諸々のことも知らないんだよなあって、そんなふうに思ってしまいました。時は確実に過ぎていく。死にたいと思った時もあった、死にそうになったこともあった、その逆に心から幸せを感じこともあったし、楽しい出来事もたくさんあった、そのどちらも経験していくことが、今ここで生きている者の使命なのかなあって、生きていくことに意味はないと思う人にはそういうことを感じ取ってもらえたらなあって、そんなふうに思いました。だって、望んで生まれてきたわけじゃなくても、結局はこの世界に生まれてしまったわけですからね。生まれてしまったことをいくら嘆いても無しにはできないわけですから、何とかしてそれを受け入れて自分なりに生きていかなければならないと思うんですよ。しかたないじゃないですか、何も考えていない、何も考えられない存在じゃなく、どうしたって「なんで生まれたんだろう」「なんで生きなきゃならないんだろう」って考えてしまうのはそれはもう人間としてはしかたないことなんだから、そこから何とか脱出して「ま、いいかー」とそれなりに生きていく、それができれば、生きていくこともそんなにつらいことじゃないかなあって。なんだかそんなふうに思えてきたような気がします。せめて、残り少ない時間を好きな人たちと楽しく生きていきたい。そんなふうにね。梓さん、きっとあなたもそうだったんじゃないかなあって。なんだかそんなふうに思います。なんだかそんなふうに、ね。








画像提供サイト/Pearl Box

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