2009年07月30日(木)10:30
曇り。

昨日はうまい具合に雨は降らなかったな。出勤する頃に霧雨みたいなのがちょろっと降っただけで。帰りも無事降らなかった。私の自転車はパンクしちゃったんで、一昨日の夜にババさまには「明日借りるね」と電話しておいたし。ただ、雨の心配もあったということで、いつもより10分くらい早めに家を出て、ババさまんちまで歩いて行った。仕事は4時半で終わったんで、プラントで夕飯の買出しする前にプラント内の本屋で何かないかなーと物色。その時にガクトさんの特集20ページだかっていう雑誌を見つけたんだけど、見てみたら写真ばかり。今回のライヴの写真だったんで、私も見覚えのあるもので、いろいろと思い出すにはいいかなあとも思ったけど、書かれている文章もライヴ内容ばかりだったし、私にとってはそういうのより、やっぱりガクトさんの言葉が書かれているもののほうがいいよなあということもあって、買わなかった。ライヴのことは、そのうちライヴDVDを購入するつもりだから、そっちでいいし。だから、その分のお金でアーサー・C・クラークの「90億の神の御名」を買った。1050円もしたよ。文庫本なのに。まだこの前に出た「太陽系最後の日」も読んでない。まあ、今読んでる栗本さんの本を読み終わったら読むつもりだけど。






この「90億の神の御名」に収められている短編の数々の中には、私が中学の頃に読んだ話もあるんだけど、パラパラっとしてみて、やっぱり私はこういった小説が好きなんだなあと思ったなあ。昔の日記を読み返していて、その頃にサイトで公開した自作の「宇宙探検DD7計画」(音楽鳴ります)をまた読み返したんだけど、そういったクラークとかのSFを読んだことで中学の頃にSFにはまったんだよなあって。だから、中学の頃に書いて、今の私がリライトしたDD7は、やっぱり私にとっては一番読みたい内容の小説でもあるわけ。ほんと読み返してて、やっぱこういった話をまた書きたいよなあと思ってしまった。ただ、私にも物書きとしての意地があったりするんで、途中で投げ出したくないという気持ちは強い。どうしても書きかけのファンタジーは書き上げてしまいたい。それに、ガーディアンの話は私の書いていたSF(というよりはエセエフだけど)の話に繋がる話でもあるから、やっぱ書きたいという気持ちはないわけじゃないしね。
でまあ、そのDD7の中で、主人公のノアの父親が死んでしまう逸話があって、その父親が残した言葉にこういうのがあったんだけど。

「人間は誰でもいつかは死ぬのだ。だから私は死は恐れない。誰にでも訪れる死とは、神が人間に与えた最大の平等だと私は思う。たとえ、それが早くとも、永く生きた人間よりも不幸せだということはない。早く死ぬ者はそれなりの幸福を与えられているはずだと信じる。それを感じる心があるか、ないか、それがその人間の価値を決めるのだと私は思うのだ」

これを今読み返して、ああ、そういえば梓さんもこんなことをあとがきで書いてたなあと。

『───本当は誰もが、ガンになろうとなるまいと、本当は幸せであるはずなんだ、この世に生まれて生きてゆける。ということ、それだけで幸せなんだ、ということを───』

これは昔、梓さんが乳がんになった後に書いたエッセイ「アマゾネスのように」を、またしてもガンになって手術をした梓さんがもう一度文庫本として出した時にあとがきで書いていたことです。
彼女は、だから自分は二度もガンになって、そして今回のガンはもしかしたらダメかもしれないと感じてはいたけれど、それでも自分は「幸せです」と言い切ることは、それが自分がラッキーだったから、自分が前向きだったからというわけじゃなく『そのことに気付くことが出来たから』だと書いていました。
私はこれを読んだ時、これって病気で死ぬことだけじゃないよなあと思ったんですよね。またしても、誰かにとっては「また天慈さんが突拍子もないこと言ってるぞ」となるかもしれませんが。つまり、どんな死に方であろうとも、気付くことさえできれば、その死に行く人は幸せだったんだっていうことにもなりますよね。まあ、どんな死に方だろうがというのも、ガンなんかよりももっと酷い死に方はあるわけで、殺人でもそう言えるのかということにもなるんですけれど、たとえ殺人で殺されてしまったとしても、殺された人のそれまでの人生でまったく幸せじゃなかったという時もなかったわけじゃないですし、その幸せがあればこそ、今はこんなふうに殺されてしまったけれど、自分の生は無意味じゃなかったという考え方さえできればその人は不幸なんかじゃないということもできます。たとえば、一度として幸せなんか感じたことなく死んでいく人だったとしても、そもそも生きていたこと自体が幸せなんだと考えることができればいいんでしょう。ただ、やはりそういったことを気づくっていうのはなかなか普通の人には難しいとは思いますけれどねえ。やっぱり、心はその人だけのものですから、どんなに他人から「気づけばいいんだよ」と言われても「はい、そうですよね」とはならないとも思うし。

ただ、自分が本当にかわいいと思うなら、気づくべきだとは思うんですよね。自分が不幸になりたいと思う人はいないし、やっぱり自分が幸せでありたいって思うのが普通だと思うんですよ。だとしたら、何としても気づいて安らかに死んでいきたいって思うじゃないですか。少なくとも私はそうです。人間はいつか必ず死ぬんですから、その死ぬ時に安らかに死んでいけることはこの上ない幸せだと私は思うんですよ。けれど、私は人一倍痛みとか身体が辛いことに対して恐怖を感じてしまう人間です。だから、なかなか気づくことはできません。まだ若い頃は自分が死ぬということはなかなか信じられないことではありましたから、まだ実感として自分が死ぬっていうのは想像できてはいなかったと思います。けど、だんだんと年取っていき、今の私はいわゆる更年期と呼ばれる年代になってきていて、そのせいで体調がよくないのがデフォルトです。こうなってくると本当に自分の死というものが身近に感じられてくるようになり、今の私はそういうことについての関心ばかりが強くなってきているんですよ。今の私はとにかくもう心穏やかに暮らしたいと、そのことばかりです。この体調の悪さと何とか付き合っていく心の強さを手に入れたいと、そればかりを願っています。なんかもうね、今から死ぬための準備に入ってしまったような感じなんですよね。こういうのもよくないことなんでしょうけれど、けれど、現実に体調はよくないわけですからしょうがないです。何とか楽しいことだけを考えていきたいと思ってます。でもなあ、梓さんもいなくなってしまうし、他にもいろいろと今年は「なんて年だ」って言われるくらいに次々と死人が出たりしてて、とんでもない年だよなあ。でもまあ、息子の就職のことで何らかのことが決定するのも今年であるはずなんで、それさえちゃんと決まれば、少しは私の気持ちも楽になりそうなんですけど。さて、どうなりますことやら。高校受験のように私の杞憂で終わってくれれば一番いいんですけど。








画像提供サイト/Pearl Box

inserted by FC2 system