2009年07月02日(木)07:04
曇り。

昨夜から今朝にかけて暑くない。むしろ寒いくらい。毛布をまた出した。今朝も体調いまいち。昨夜、早く寝ようと思ったんだけど、つい「真夜中のユニコーン」の続きが読みたくて読んでたら12時前になってしまったんで、慌てて寝た。夜中2時前に一度起きたけど、旦那がいつのまにか帰ってきて寝床に入る5時半くらいに目が覚めた。それからまた少し寝て6時半に起きた。

昨日の仕事は5時まで。

昨日仕事から戻ったら息子が「今日ツタヤ行ってきた」と言った。友達がツタヤに行こうっていうことで行ったらしいんだけど「Flower」並んでたそうな。サイフ持ってなかったんで買えなかったって。で、やっぱり「LOST ANGELS」は並んでなかったそうな。20日以降発送ってなってたから、当分店頭には並ばないんだろうなあ。






2009年07月02日09:56
栗本さんの「真夜中のユニコーン」読了。前回の「水曜日のジゴロ」よりもこっちのほうが私的には好きだなあと思いました。文庫本のあとがきは2006年2月に書かれているんですが、本編が書かれたのは2003年で栗本さんがハウステンボスに行ったことで触発されて書かれたもので、当時の日記にハウステンボスが寂れてしまってたということを書いていたのを私も覚えてました。確か、その頃だったと思うけれど、私も倉敷のチボリ公園に行って、その廃れように感慨深く思ったものでした。で、チボリ公園も確かもうなくなってしまったんじゃなかったかな。ハウステンボスも倒産したらしいけれど、今はどうだったっけ。

さて、それでこの「真夜中のユニコーン」を読み出して最初の頃に登場人物の一人が自分の知り合いが自分ちのマンションの一階で趣味の店を開いたけれど、まったく客が入らなくてっていう話をして、自分や主人公の女の子がバイトしている遊園地の廃れようをそれと似たような感じだと評している箇所があった。その時のセリフがこれ。

『(前略)客こないのに来る日も来る日もコーヒーたてて水割りの用意してランチのメニューを外の看板に書いてっての、10年やってたら、なんかすっごい、なんていったらいいのかな、すさんだっていうのかな、そういう感じになって、それ見て俺、ああ、人って、やっぱり、客こない店ってやってちゃ駄目だし、誰も見てくれない好きだからいいんだってのは嘘だなと思ったねえ』

客がこなければ売り上げは皆無だろうし、普通だったら好きでもお金が続かないから客のこない店なんてやってはいられないわけです。だから、客がこない店はそんなに続かないんで程なく潰れていくんでしょう。けれど、なまじお金には困らないせいで、好きだから続けていくっていうので続けてしまったため、好きだからやってるというその人物は人相が悪くなっていったということです。

『そしたらね、やっぱ、その先輩ね、だんだん、人相悪くなってきたんだよね』

読了してしまったのでわかったことなんですが、この最初頃に出てきたこの諒のこの言葉こそが犯人解明への伏線だったんだなあと思いました。何かに執着してやり続けていくのもいいのですが、それがまったく何も生み出さない、何の成果にも繋がらないということは、本当は危険なことなんではないかという……確かにそんなことだけじゃない、成果がないわけじゃなく、好きだから続けられるっていうのも悪いことじゃないでしょうけれど、でも、それはやはり誰かがちゃんと評価してくれないと歪んだものになっていくだろうなあって。多くなくてもいい、一人でも自分以外の誰かが評価してくれれば、それだけでも異常な歪みにはならないんじゃないかと、そんなふうに思いました。それは、ブログやらサイトやらにも言えることなんじゃないかとも思ったし、人間関係でも言えることなのかなあって。

話は変わって、最後のほうで伊集院大介が謎解きをしている箇所が出てくるんですが、そこで「どうしてみんな不倫するの?」と言う主人公の聡子に「それが当たり前というわけではない」と言い、彼はこう言います。

『…僕はべつだん、一夫一婦制の強力な信奉者でも、結婚制度の強力な推奨者でもありませんし、恋愛というのはときに当人たちの自由にはならぬようなかたちで落ちていくものでもある、と思ってもいますけれども、だからといって、そのために嘘をついたり、ひとを傷つけたりすることは、それなりにむくいや無理が発生してくることで、それが人間関係にゆがみを作るのだと思っています。それだけのことです。─ゆがみのある人間関係が、不自然な行動になってあらわれ、それが不自然な結果を生むから、それが目立つことになるんだと僕は思いますよ。それはちゃんと正式な夫婦のあいだでも、親子でも、まったく同じことだと思います』

思うんですが、恋愛において正直というものは尊敬されることではあるんでしょうけど、「そのための嘘」っていう時の「嘘」は全て否定されてしまってもいけないような気も私はしてたりするんですよね。嘘は確かに人を傷つけますが、それと同じくらい正直っていうものもまた人を傷つけますから、なんもかんも正直にしていていいもんだろうかとも私は思うんですよ。人を傷つけないためにつかれる嘘までも否定はしたくないっていうのが私の考え。ただ、以前にも言ったけれど、嘘はどんな嘘でも誰かを傷つけるものでもあるから、傷つけないためについた嘘は決してバラしてはいけないんだということです。つまり墓場まで持っていけということ。そうではあれば、その「嘘」は「嘘じゃなくなる」んですよ。もっとも、今の私は、時には傷つけることも本当の優しさなのかもしれないなという気持ちも持ち始めてもいるんで、やっぱり全てのことは時と場合によっては考えや対処を変えていくべきだろうなあとも思うようになりましたけれど。時には墓場まで持っていくべきだった秘密を明かしてしまうことも必要かもしれないなっていうふうに。ただ、そのために取り返しのつかないことになってしまうこともありうることは肝に銘じておかないといけませんが。そうだとしたら、やはり明かさないことも正しい選択ですものねえ。

主人公の聡子は最後に「何もかもわからなくなってしまいそうだ」と言っていますが、そんな彼女に伊集院大介は、殺されてしまった人や殺した人や悪いことをしていた人たちを「自分の都合でしか人間を見ていなかったんだ」と言います。けれど、人間というものは自分の思い通りには決して動いてくれないもので、そこを強引に思い通りにしようとしたら犯罪やファシズムや戦争になっていってしまうというようなことを言っています。ただ、そんな人たちばかりじゃないと彼は言います。

『幸いにして世界のすべてがまだそんなことだけで満たされてはいない。世界には、信じていいものも、愛するに足る人も、信用するに足る人間もたくさんいますよ。そしてまた、信じていい愛情や誠意や真実も。どれほど、そうでないものが幅をきかせていたって、僕はそう信じているし─ある感情を真実になしうるかどうかは、結局のところ、どんな状況にあうかではなくて、そのなかで、その感情をどうやって信じてゆけるかだけではないでしょうかね。(中略)ひとはたいてい、頭のなかに自分だけの、ひととは決して相容れぬ秘密の幻を持っているものなのだと思いますよ。ごくごくまれにそれが、ほかの存在と一致することもないとはいえないけれども』

信じていい愛情、確かに私にもありますね。その最たる愛情は私へ向けられる旦那の愛情であり、母の私への愛情なんだろうなあと思います。そして、私は彼らの愛情を心から信じている。それが私が生きている理由の一つでもあるかなあとも思いますね。私にも信じられるものがあるっていうことは本当に幸せなことだなあって、そう思います。けれど、そんな私にだって、誰も知らない「幻」っていうものはあります。ただ、誰かと決して相容れぬとは思わないですけどね。きっと、誰かは似たような幻想は持ってるだろうという自信はあるんですけれど。それは、その「幻」は私は小説で表現してきたから。多くの人の共感は得られなかったけれど、それでも数少なくても誰かはそれぞれの小説に共感を寄せてくれた。それだけでもう私の好きでやってきたことは無駄なことじゃなかったと思えます。「人相悪くなっていく」ことはないかな、と。

この「真夜中のユニコーン」を飛ぶように読み進めていて、ああ、もう栗本さんの書くこんな物語を読むことはできないんだと思って切ない気持ちになっていったものでした。あと数冊かあ…。








画像提供サイト/Pearl Box

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