2009年02月19日(木)07:30
曇りのち雨。

今の天気は曇りだけど晴れ間も見えている。予報では昼から雨らしい。何とかポツポツ程度ですんでくれればと祈っている。今日は昼前に旦那が出勤したあとに掃除とかして息子が昼過ぎに戻ってくるのを待ち、ご飯を一緒に食べて、息子を留守番させて(させなくても出かけはしないとは思うけど)美容院に行ってから夕飯の買出しに行こうと思う。だから、ひどい降りになってほしくないんだよなあ。
今朝は、昨日ほどは調子が悪くはない。でも絶好調というわけではないので、あまり出かけたくはないんだけどねえ。でもしょうがない。美容院は今日いかないと。




えーと、もう触れないつもりだったけど、えっけんさんのセクハラコメント問題。あれで書き直してもダメなようなこと書かれていたよね。件のコメントを「あとでかくと書くと変なふうに曲解する人がいるから気をつけたほうがいいよ」って書いてもダメなんだろうか。きっとダメなんだろうな。

そういや、漢字表記・ひらがき表記の話で、梓さんも漢字にしてなくてそれを指摘してきた人とかいたけれど、その時も別に「漢字にすべきだ」と言うことじゃないじゃんかと思ったものだったけど、意地悪したい人だったら、意味がわからんとか、そんな漢字くらいわからんのかとか言い出す人もいたりするだろう。そういうことで、揚げ足を取られないためにもキチンと書いたほうがいいんだろうけれど、揚げ足取られたりしても騒がない覚悟のある人であれば、ひらがなで書いていけばいいんじゃないかなとも思う。とはいえ、そんなこと言い出すと、またいろいろなんかかんか言ってくるんだろうな。好きなように言われるだけで我慢しなくちゃならないのか、とか。なんかほんとめんどくさいなー。

やっぱ傷付きやすい人は公の場所で書かないほうがいいと思うけどねえ。




「shinzlog - Clips 村上春樹の言葉(全文)」というのを読みました。

書かれている内容について、一部は頷き一部は頷けない、つまり考え方が違うっていうところはあるけれど、それでもいいことを言ってるなあという気持ちは持ちました。それが素直な気持ち。だから、ここは考え方が違う、ここは賛同できるっていうのを書いていきたいなと思います。
村上春樹の小説は一冊も読んだことがないから、本当なら触れるべきではないのかもしれないけれど、この発言だけを読めばこの人がどういった考えで小説を書いているかがわかるし、私も作家の端くれ、その私の立場から「私はこう思う」というものを書いてもいいんじゃないかと思いました。そして、私はやっぱりこの人の小説は読んでみたいとは思わないんだけど、だからといってこの人の作品がダメだとか言うつもりはない。これは好みの問題だから。と、言い訳を言ってから、話を続けます。

『今日、私はエルサレムに小説家、つまりプロの嘘つきとしてやってきました。もちろん、小説家だけが嘘をつく訳ではありません。すでに周知のように政治家も嘘をつきます。外交官や軍人は時と場合によって独自の嘘を口にします。車のセールスマンや肉屋、建築屋さんもそうですね。小説家とその他の人たちとの違いですけど、小説家は嘘をついても不道徳だと咎められることはありません。実際、大きい嘘ほど良いものとされます。巧みな嘘は皆さんや評論家たちに賞賛されるというわけです。』

エルサレム賞っていう賞だったっけ、もらった賞って。なんでそういった賞をもらったのかは作品を読んでないのでわからないんだけど、この作家というものは嘘つきっていうのは確かに私はもそう思っています。嘘はよくないというのが常識ではあるんだけど、何でもかんでも正直に相手に伝えるのもどうかと思うっていうのも常識ではあると思うんで、嘘つきがすべて非難されることでもないんだけど、作家っていうものは嘘をついているということを多くの人が知ってる上に、その嘘を書くことを奨励されている職業でもあるんだよね。まあ、嘘ばかり書くのが作家というものでもないんだけど。ノンフィクション作家ってのもあるわけだし。

『どうしてこんな事がまかり通っているかって?答えを述べさせていただきます。すなわちこういうことです。創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、正確に描写する事も困難です。ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。』

私、曲解してるかもしれないけれど、これって嘘を書いてるわけじゃないってことじゃないのかな。
たとえば、私なんかも虚構の話を書いてはいても、その端々に自分の経験したことや自分の考えや、誰かが体験したことなどを織り込んで書くことがある。それは本当のことを嘘の中に配置して見せ場として書くということなんだけど、嘘でもあり、本当でもあるというそんな構成になるんだよね。けど、そうなると、作家は嘘つきというのもちょっと違うんじゃないかなあと、厳密に言うとそれは嘘つきじゃなく、ほら吹きじゃないのかなと思ってみたり。って、同じことか。(笑)

『小説家は特殊な種族です。その目で見てない物、その手で触れていない物を純粋に信じる事ができないのです。

そういう訳で私はここにいます。ここに近寄らないよりは来る事にしました。自分で見ないよりは見る事にしました。何も言わないよりは何か話す事にしました。政治的メッセージを届けるためにここにいるわけではありません。正しい事、誤っている事の判断は、もちろん小説家の一番大切な任務のひとつです。』

小説家は特殊な種族というのはわかる。けれど、私はその目で見てなくてもその手で触れてなくても、それでも純粋に信じることできるよ。だから、目で見て触れなければ信じられないという作家だけじゃないと私は言う。そして、正しい事、誤ってる事の判断も作家の大切な任務とは思っていない。でもまあ、正しい事とか誤った事の判断をしていないというわけじゃない。自分なりにこれは正しいとか誤ってるとかはその都度考えてはいる。ただ、それが万人のために導き出されたものじゃなく、あくまで自分だけの正誤なんだよね。だから、任務という言い方はちょっと違うかなと私は思う。て、いうか、次の言葉で書き手にゆだねられるって書かれてあった。(笑)

『しかしながら、こうした判断をどのように他の人に届けるかを決めるのはそれぞれの書き手にまかされています。』

で、村上さんは、今回は個人的なメッセージとして届けると言っています。

『私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です。私は完全に信じています。つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が小説家の仕事だとかたく信じています。それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。』

これが村上さんの作家として立ち居地だとしたら、私とは違う立ち居地だよなあと思いました。私は小説を書くのはそんな大層な理由があるわけじゃない。ただもう自分を救いたいがため、自分が読みたいものを書いているだけだから。ただそれだけの理由で書き出し、今でもそうだから。

そして、この後に書かれることは、それほど私の関心を引いたものじゃなかったです。けれど、とてもいいことを言ってるなあとは思いました。ひとつ惹かれたことは、次の言葉。

『味方と敵、両方の死んだ人たちすべてに祈りを捧げていると父はいいました。仏壇の前で正座する彼の背中をながめると、父にまとわりつく死の影が感じられるような気がしました。父は亡くなり彼の記憶も共に消え、それを私が知る事はありません。しかし父に潜んでいた死の存在感は今も私の記憶に残っています。それは父から引き出せた数少ない事のひとつであり、もっとも大切な事のひとつであります。』

これと似たようなことで私も記憶に残り、その人たちから引き出せたものがある。そして、それを小説に表現してきた。だから、私も自分を救うために小説を書いているとはいえ、何らかの真実というものを表現して他者に訴えたいと思っているのだろうなと思う。

まああれだ。別に私は村上さんのようになる必要もないし、作品が大好きで本人のことも大好きな梓さんになりたいというわけじゃない。私は「私」として自分が書きたいと思う物語をただ書いていくだけ。そこには崇高な目標もないし、誰かのためにというものも掲げてはいない。それらは私が死んだ後に誰かが決めてくれればいい。とはいえ、そうなれるほどに村上さんや梓さんみたいな有名人にならないと、そんなことにもならないんだろうけどねえ。





画像提供サイト/Pearl Box

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