2009年02月04日(水)09:08
晴れ。

今朝はいい天気。体調もまずまず。てか、最近ずっと体調の良し悪しで始まりますなあ。あはは。まあ年取っていくってことはそういうことだ。
昨日は仕事は4時半。旦那に迎えに来てもらう。ババさまに息子も一緒。買い物して晩ご飯はババさまんちで。昨日は「本怖」あるなんて知らなかった。途中までババさまんちで見て、戻って家で続きを見る。昨日はメイちゃんもあるんで、このままではリアルでは見れないなと思って、予約入れておいてあとで追っかけ再生で見ようかと思ったけど、いろいろ雑事してたら時間なくなって11時。とっとと寝ることに。今朝もまだ見てない。今朝からは「天地人」を見てる。やっぱおもしろいわ。

今日はお休み。旦那は今夜出勤。


「僕が人を殺したかった頃 - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は」 を読んだ。

信じてもらえるかどうかはわからないが、私は生まれてから一度も誰かを「殺したい」と思ったことなかった。それなりに、なんだこいつは、生きてる価値も意味もないじゃないかと思うことはあっても、それだから殺したいとも思わないし、死ねばいいのにと口にしたり書いたりしたとしても、それを本気で言ったことはない。自分は確かに感受性は強く、その感受性のせいでとても生き難い人生を送っているという自覚はある。だが、憎しみに関しては絶対に抱いたことはないとは言い切れないが、殺したいほど憎むという気持ちはどうしてもわからない。その気持ちだけは感じたことがないようだ。それを喜ぶべきだとは思うが、その気持ちがあれば少しは楽に生きれるのかもしれないという気持ちも持ってたりするんだよな。喜びや悲しみや痛みとかいったものには人一倍強く感じてしまって、それらについては表現もできないこともない。そんなテーマの小説はけっこう自分でもよく書けてるとは思っているしね。

とりあえず、他の感情はこっちにおいといて、憎しみから発生する「殺したい」という感情について自分なりにどうして自分はそう思わないのかを考えてみた。実際に殺すわけではないけれど、子供の頃から物語の上では人の生死は見てきたわけで、それは私に限らず、すべての人が物語を読み聞きしていれば生死についてはどんなものかを知っているわけだ。そして、さらに物語を書く側になれば、人の生死を、まるで神になったかのごとく決定していく。それは現実じゃない、ただの想像だと言う人もいるだろうが、私のように描かれる物語世界が実際にどこか別の世界ででも存在していると信じる者にとってはリアルを伴って自身に迫ってくる。だからこそ、私たちのような創作者は「物書きは業が深い。書けば書くほどいずれは、或いは死んだ後にでも地獄に落ちるだろう」と思っている。それは、物語とはいえ、人の生死を扱ってるから。

時々、小説やら漫画やらで描かれる残酷な殺人などに興味を持って、それを実際に実行してしまう人というのがいたりするが、どうして物語だけで発散ができないのか、私には理解ができない。それはまあ、他人は私じゃないので、私と同じようにしろとは言えないし、違うのが普通であり、そうあるべきなんだろうとは思うが、だが、私のように幻想だけでも満足できれば、実際に悲惨な事件を起こすこともないのになあと思わないではいられない。私は、恐らく、憎しみ、殺したいという欲求を「書くこと」で発散して満足しているんだろうと思う。みんながそうであれば、人を殺すというような犯罪はなくなってしまうのに。そうなればいいのにとは思うが、それもまた正しいあるべき世界の姿ではないんだろう。人は死ぬ。それはどんな死に方であろうとも、人は何らかの原因で死ぬということが正しいあるべき世界の姿だから、だから、人は死ぬように作られているのかなとも思う。それには命を奪われるという死に方もあるんだろう。あってほしくない出来事ではあるが、それをなくすことは誰にも止めることはできないんだろう。「殺したい」という気持ちがある限り。物語で殺したい誰かを殺すという手段を持ち得ない人にとっては、現実で殺すしかないんだ。それを私は「殺さないで」とは言えても、止めることはできないんだ。

ただ、現実での殺人を止めることはできないが、私は物語では殺人することを止めることはできる。私にとっては物語も現実。それは物語は所詮物語でしかないと思う人間には想像もつかないことだろう。信じてない人にとっては。

とまあ、ほんと記事に関係ないこと書いちゃったけど。(爆)

『ちょっと、極端な言い方をしますが、人が人を殺してしまうのに必要なのは「運」と「タイミング」なんじゃないかと思います。それさえあれば、憎しみとか絶望とか「殺したい」という強い欲求はそんなに必要ではない、と。自殺でさえそうなんじゃないかと思うときもあります。と言うよりも、人間の行動は、そのほとんどが「運」と「タイミング」で決まっているんじゃないか。もちろん「意志」というものも大事だけれど、そのわりには、この人生にはしたいと思ったことができなかったり、したくなかったことをやるはめになったりすることが多いし。(生きるためにやりたくないことをやるということだけじゃなくて、人は自分の意に反する行動を取ってしまうことがあるよね、ってことです。)

今の僕がここに居るのは、「運」と「タイミング」のおかげでしかない。』

私、23mmさんのこの言葉には頷ける。なんか前に誰かも同じようなこと言ってたし。殺す関連じゃなくても、誰かを好きになるのも「運」と「タイミング」って言えるよね。私も、たとえばガクトさん好きになったのも、ほんと「運」と「タイミング」だったし、私とずっと友達でいてくれるネットで知り合った人にも、「運」と「タイミング」で繋がってる人がいるから。

『と、話がずれましたが、僕が「殺したい」と思っていた10代の頃から、気持ちが変わってきたのは、そう思っていることに疲れてきちゃったからです。「殺したい」という気持ちはやっぱり憎しみからくるわけですが、憎しみって何も生み出さないんですよ。少なくとも、生身の僕にとってプラスになることを。

だったら、人を嫌ったり憎んだりするよりも、好きになる方がずっといいです。「好き」という気持ちは苦しいときもあるけれど、僕をダメな人間から少しだけマシな人間にしてくれるような気がします。それが積み重なっていけば、だいぶマシになれるかも、なんてまた胡散臭いことを書いてしまいました。

とはいえ、僕がこの先にどんな「運」や「タイミング」に出会うか分かったもんじゃない。それは忘れちゃいけないな、と。』

と、こう言っている23mmさんって、ほんと「優しい人」だなあと思った。これはもう、殺したい気持ちに疲れて「好き」を選び取ったということで、こういった心の動きをしてきた人はみんな優しいなあと、いろんな人を見てきて思ったから。だから、殺したいが最初からなくて、最初から好きしかない私は、やっぱり優しい人間ではないなあと、そんなふうに思った。だって、私には「殺したい」と思ってしまう人の気持ちがわからないから。わからない人間は優しい人では決してないって私は思ってるから。




画像提供サイト/Pearl Box

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