2009年02月03日(火)07:50
曇りのち雨、の予定。

昨日はほんにいい天気だった。おかげでだいぶ体調は悪くなかった。絶好調というわけじゃなかったけどね。今朝はそれほど天気はよくないし、昼からは雨になるらしいけれど、そんなに体調は悪くない、よくもないけど。寒さがだんだんとゆるくなっていくからなのかな。やっぱ寒さはダメだ。私に限らず年寄りにはよくないと思うな。地球温暖化のことが問題視されているけれど、私個人の気持ちとしては温暖化して冬がなくなって寒くない常春な気候になってほしいなあと思う。寒いと体調悪くなるのはほんとしんどいから。まあ、自分のことしか考えてない自分勝手な願いではあるんだけどね。でもさ、この体調の悪さ、経験してみたらわかると思うんだよ。ほんともうやだよ、こういうのって。でもまあ、わたしなんかはまだマシなんだと思うようにしないとなあ。それにしても思ったんだけど、梓さんはあれだけ身体にいい食事とかして実際に肝臓とかの数値などがすこぶるよくて健康体なのに、それなのに癌ができてしまうっていうの、皮肉だよなあ。だって、どんなに身体にいいことしたって病気にはなるってことだもんな。まあ、だからといって身体に悪いことをしていくのもどうかと思うんで、なるべく気をつけるようにしなくちゃねえとは思うんだけど。

昨日の仕事は5時まで。月曜だから帰れなくなるかもと思ったんで5時で帰るとは言ってたんだけど、結局みんな5時で帰れることになった。けっこう忙しかったんだけどね。旦那に迎えにきてもらって買い物して帰り、旦那は7時くらいに出勤していった。今日は昼までに帰る予定。で、そのままお休みに。明日は夜に出勤。私は明日明後日連休。明日はメガネ屋さんにつれてってもらってもうちょっとだけ締めてもらおうかなって思ってる。

で、今日は階段掃除。昨日の段階で覚えていた。そしたら、仕事から戻ってみたら今回はちゃんとお隣さんから札が回ってきたよ。よーし。雨が降りそうだから降り出す前にやっつけてこようと思う。


「人に優しく - 23mmの銃口から飛び出す弾丸は」を読んで、書かれている内容にほとんど関係ないことなんだけど、思い出した過去のサイト炎上の思い出。(笑)

『もちろん、文責というものは記事を書いた本人にあるわけで、その責任が減じられることなんてないんですけど。

しかし、少なくとも情報というものが、それを発信する側によってだけでなく、情報を受け取る側も含めて形成されるんだ、ということは言えると思います。極端な話、アクセスログを残すだけでも、状況に加担していることになります。

しかも、WEB上では情報の発信者であるか受信者であるかが、かなり流動的です。ある記事を読んで、はてブでコメントをつけたり、自分のブログで感想を書いたりしたら、その時点で受信者から発信者に変わってしまいます。そして、「発信者」となれば、影響力の大小はありますが(そして、それもとても重要なことではありますが)、企業だろうと個人だろうと本質的な違いはないんだろうと思います。』

↑に書かれていることだけで、なんだけど。

当時、例の拉致された人があちらでどのような生活を送ってたのかということを作家の立場から「こうだったのではないか」と想像して、そうであってほしいと書いた梓さんに「そうだよねえ」と応えた形の日記を書いたわけだ。デリケートな問題でもあったんで、安易に拉致された人の生き様を「こうであったんではないか、だといいな」と書くことは、そりゃ拉致された家族にとってはデリカシーに欠けると言われてもしかたないかもしれないが、やはり今でも私は第三者があーだこーだと、言ってもいいけれど、それを掲げて攻撃してくるのはどうかと思ってるんだよね。つーか、思い返してみると、私の時は攻撃とは違って、いわゆる議論を強要されたっていうやつで、一人二人は正当なことを自分はやっていると思ってたんだろう。それ以外の書き込みや他の掲示板での私への中傷は、気に食わない奴へのいじめみたいなもんだったんだろうから、当時は傷付きもしたけれど、今はまあ書いてストレス発散という気持ちもわからないではないので、それほど当時ほどは気にしていない。私も人のことは言えないしね。似たようなストレス発散はしてるわけだから。ただ、議論をしてた人については、どうしてそういった議論をしようと思ったのか、その心理というものが私にはどうもわからない。今でも議論が成立しそうにない相手に議論をふっかける人を見ることがあるが、相手にどうしてほしいのか、どう言えば「ではここまでにしましょう」となるのか、そういった意義のある議論というものが見えてこないんだよな。

議論して相手に勝ちたいのか、改心させたいのか、そういったことなら何となくわかるけれど、たとえば私なんかも手っ取り早く議論を打ち切りたいから、相手に合わせて「申し訳ありませんでした」と、私に非があるように返しておしまいにしてしまうことがあるが、しかし、本心では納得してないわけで、それをつい日記でまた吐露してしまう。で、相手はそれを見て再び議論を再開させてくるわけで。本当に相手に勝つってことは、早い段階で相手を本当に改心させ、心から謝らせることであるのに、長々と議論が続いてしまうということは、もう相手といくら話し合っても無駄なことなんじゃないかなあと思うんだけどねえ。それを続ける意義がどうしても見出せないのに、どうして続けるのか。私には理解出来なかったし、今でも時々そういった長々と議論しているのを見るにつけて理解できないと思ってしまう。もちろん、そういった長々とした議論でも気持ちのいい終わり方をすることもあるだろうから、まったくなくしてしまってもいけないことなんだろうけれど。だが、議論する相手はやはり選んでやってほしいなあと思うよ。間違っても私みたいなのには議論ふっかけないでほしいなあって。そりゃ、相手にとって「なんてひどいことをこいつは書いてんだ」ってなれば、私をぎゃふんとさせたいと思う輩も出てくるんだろうけれど。そんなに私ってひどいこと書いてますかねえ。これくらいでひどいなんて言ってたら、何も読めなくなると思うんだけど。

まあ、どんなことを言ってもいいというのが私の持論でもあるんで、議論さえふっかけないでくれたら、私のことをどこでどんな悪口言ってもかまわないけどさ。

『で、僕が言いたいのは、ここまで書いてきた広い意味での「情報の発信者」はもっと人に優しくなればいいのに、ということです。

批判をするなとか悪口を言うなとかそういうことではなくて、ある状況(「祭り」でもなんでも呼び方はいろいろあるでしょうが)が作られるときに、自分もそれに加担しているんだということを意識していれば、そう無茶苦茶なことは書けないという気がするんです。あるいは、こういうことに自覚的であって、その上でする批判や罵倒は、自覚的でない場合に比べて、言葉の「強度」が全然違うのだろうとも思います。何よりも、書くのも読むのも同じ「人間」なのだから、深く考えられた批判の方が、そうでない批判より「優しく」感じられるのは当たり前でしょう。

ちょっと、押し付けがましい言い方になってしまったかもしれませんが、僕は時々こういうことを考えます。願望として。自戒も含めて。』

私も一応は発信者ではある。だが、23mmさんの言うような優しい発信者ではないという自覚はある。だから、どんな中傷をされてもしかたないかなあという気持ちもあるわけで。今までにいろんな言葉を見てきたおかげか、ずいぶんと耐性はついてきたかなということで、批判や罵倒を受けたこともそれほど悪い経験じゃなかったなと思っている。たぶん、私という人間には「優しさ」は必要なかったなと、そんなふうに思った。何を持って優しさかということもあり、私が受けたものも歪んだ優しさだったかもしれないけれど、私にとってはあの炎上も成長するために必要な洗礼だったと、今はそう思っている。

てか。当時の炎上を知らない人からすれば↑に書いたことって意味不明だろうな。わかりやすく書いてるとは自分でも思ってないし。でもまあ、グチみたいなもんと思ってもらえばいいかと思われ。不親切でごめんなさい。




画像提供サイト/Pearl Box

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