2007年12月28日(金)11:16

またしても訃報の話なんですが。とはいえ、私は知らない人なんですけどね。

昨日は昼から実家に行きました。さといもやら何やらとやるもんがあるから来いって母ちゃんに言われて行ったんですけど、しばらく父ちゃん母ちゃんと話をしたんですよ。そのときに、23日の午前中に余子駅から高松駅に向かう途中の道路で事故があり、母ちゃんの仕事場にきている女性が巻き込まれて亡くなったんですって。帰りにそこを通ったら、折れた道路標識と花束が添えられていました。車の下敷きになったそうで、全身の骨が折れてしまってたそうです。私が仕事場に向かう道から外れていたので、23日の昼に近くを通ったですけど気付きませんでした。
ただ、今の仕事を始めたしばらくはその道を通っていたのですよね。いつの頃からかプラント方面から仕事場に行くようになったんですけど。最初は余子駅の前を通って通っていたんですよ。まさに事故があっ場所も毎日通っていたわけです。事故に遭われて亡くなられた方も、まさかそんなことに巻き込まれるとは思ってもなかったでしょうよねえ。
私なんかも、毎日仕事場に向かう途中に産業道路で信号待ちしてるとき、猛スピードで通り過ぎていく大型トラックがいつこっちに向かってくるか…なんてヒヤヒヤしてはいるんですが、だからといって、何に巻き込まれるかわからないから家から出ないというわけにもいかず、できるだけそういった不運に見舞われないことを祈るだけです。

車はやっぱり怖い。運転してもしなくても。

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すちゃらかな日常 松岡美樹 ブログの記事はどこから書き始めるか?

後半部分(や結論)がまったく頭にない状態で書き始めることが多い。で、その部分にさしかかると、突然書くべきことが思い浮かぶのだ。

 だから「おお、こんな結論になったか」みたいなこともしょっちゅうある。自分で自分に驚いてるんだから世話はない。

私の場合もこの人と似たような書き方かなあと思う。ただ、こういう書き方っていうのは書くものによって違う場合もありますよね。日記の書き方と小説の書き方、エッセイといったものの書き方、それらは多少なりとも私は書き方は違ってきます。でも、私の書くときの基本は、「核」というものがあって、それを固めていくような書き方が全ての書き物の共通点ではあります。で、それを遂行するためには「書きたい」という欲求がないと書けないわけです。こういったことは日記でも小説でもエッセイでも変わりない。

でまあ日記の定義なんですが。日記の場合は思考の垂れ流し。ノートに書いていた時代からそれだったし、サイトで書くようになってからもその延長で書いていました。そこには設計図も何もありません。キーワードだけがあって、それを提示してからつらつらと思ったこと感じたことを書いていく。だから、途中であっちこっち話題が飛ぶのもあたりまえ。書いてる最中に誰かが訪ねてきたら、そこからまた別の話題に飛んだりもする。読者のことなんかまったく考えずに書くのが日記。

エッセイもキーワードがあることは日記と同じだし、それをもとにざざーっと書き連ねていくのは日記とそんなに変わりないんだけど、ざっと書き上げたあとに推敲していくんですよね。ウェブでの日記はいきなり書き出してざっと誤字脱字を見て公開するんですけれど、エッセイの場合はいきなりは公開にはしません。最低でも数時間はおいておいて、文章の流れから効果的な表現方法やら文体やら何やらいろいろ考えて調整していって、自分の中で「これならいい」という納得を得てから公開に踏み切ります。記事によっては何ヶ月もそのままにしておいて、それから推敲してから公開したものもありますしね。

で、小説の場合は日記の書き方とエッセイの書き方を合体させての書き方ですかねえ。ただ、それ以外の書き方もあったりします。リンク先で引用されている書き方のように小説ができあがることもあります。一つのセリフが思いついて、それをもとにして物語を構築していくという書き方がそれです。(「死を生きる」がそうでした。「肉体は死しても、魂は未来永劫生き続けるのです」というセリフを思いつき、それを最後に主人公に言わせるためだけに物語を構築していったものでした)私は、これは日記やエッセイではやらない書き方ですね。キーワードで書き出すエッセイではあるんですが、キーワードはテーマではありません。もともと明確なテーマがあるわけではなく、書いていくうちにテーマが見えてきて最後に推敲していく段階でテーマが決まり、そしてそれがタイトルになっていくのです。そこらへんが小説とは違う。小説の場合はきっちりとした伝えたいテーマというものがあって書くと読みやすいものができる傾向が私にはあります。

でも、私の気持ちとしては、小説を日記を書くような感じで書けたらいいなあとは思っているんですよね。そうであれば、気楽な気持ちで小説も書けるのにって。結局は小説の場合は「さあ書くぞ」という心構えがないと今は書けないです。そのためにはまとまった時間が必要で、ショートを一本書くのにも最低でも2時間は必要なんですよ。私は日をまたいで小説書くっていうのができないんで。集中が長続きしないし、集中が途切れるととたんに興味が失われてしまうので、ガッと一気に書き上げてしまわないと、「続きは今度書こっと」っていうのが今はできないんですよね。それに、よっぽど「このテーマが書きたい」って思えるものじゃないと今は書けないようです。そして、そういった強い欲求があるテーマが今はどうもないようで。それで小説が書き出せないんじゃないかなあって思っています。

もう、誰も待ってはくれていないかもしれない私の途中で止まった小説。それでもいつか書き出せるんじゃないかという気持ちはまだなくしていません。誰ももう待ってなくても、私がいる。一番の読者は私自身ですから、死ぬまでに書き上げられれば、それでいいんじゃないかと今は思っています。それこそ天から降ってくるように。それをずっと待ち続けている。そんな気がしています。

↑のトラックバックを読んで書いた記事が↓

ルールなんか決めたくない(2008/01/13)

「それを主人公に言わせるためだけに作った」というところに、筆者のこだわりが感じられる。よほどセリフに思い入れがあったのだろう。

時には「この描写」にこだわりを持つ場合もあって、とあるシーンを書きたいがために書き上げた小説もあったな。それが「月下狂瀾夜想曲」だった。これに出てくる醜い男とその男を愛した少女の逸話で、死んで幽霊のような存在になった少女が死に掛けた愛しい男と魂を融合させることで男の命を助けるというのがある。まあこれも彼女のセリフに思い入れがあって、そのために描いたエピソードだったのだけど。

「あたしはあなたの魂の中でずっと生きていくの」
「あたしたちはひとつになる。ひとつの魂となるの」
「あたしたちはずっと二人一緒に生きていけるのよ」

これはmy little loverの「halo,again〜昔からある場所〜」という歌をモチーフにして作り上げたエピソードだったんだよね。「記憶の中でずっと二人は生きていける」の「記憶」を「魂」に変えた。
言葉というか、私はセリフというものに強い思い入れがある。言葉には魔力が宿っているという考えを本気で信じてる。だから、誰かが発する言葉を愛するし時には憎みもする。そして、自分も言葉をより効果的に発したいという気持ちを持ってたりする。

 もちろん小説じゃなくブログでもこういうのはある。何かのシーンや心にひっかかる発想が突然わき、まずメモる。で、それをテーマにしたりオチにしたりして1エントリを書く。カケラから全体が生まれるパターンだ。

自分の書く小説なんかは大抵がこんな感じで書かれる。ブログなんかも時たまそんなふうに書かれる場合がある。何かテーマを決めて書く場合はそういうもんじゃないかと思う。オチは大切だしね。ただ、すべてのブログ記事がそうかといったらそういうもんでもない。テーマなんか決めずにダラダラ書く場合がそれだ。ここでこれから書いていこうとしている「言及とは名ばかりなり」のカテがそういう感じで書かれるものだと思う。公開するものだから、誰かに読まれることを前提にして書いてはいるけれど、着地点を決めて書くつもりはない。勝手に書いて勝手に読まれて勝手に解釈される、そんなふうにやっていけたらいいなあと思う。ルールを決めずにやっていく。それが私にとって一番長続きすることなんだと思うから。そういう点で私も次の言葉に同意。

「結論は、これ読んだあなたが自分で考えてください。だって他人がまとめるより、自分で発想するほうが面白いでしょ?」


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