2004/06/12(土) 晴れ晴れ晴れ〜♪
友達も言ってましたが、生き物を飼うことは完全ではないにしろ、やはり情操教育にはいいんでしょうね。 前にも書いたのですが、死についていろいろ自分なりに考えるのはいいことだと思うんです。 ただ、その死が現実として感じられなくなったとき、自分に対しても他人に対しても殺人というものを実行してしまう。もちろん、すべての殺人がそういう心理状態から生まれるわけではないんですが、生き物を飼い、その動物の死を経験したりすると死ぬということがどういうことか、死んでしまったら悲しいんだとか、辛いんだとか、そういうことを認識できるようになると思うのです。 そして、悲しいだけじゃなく、死することを恐ろしいとも感じる。 それは、むやみやたらと怖がるのとは違って、自然に死んでしまうのでも辛いというのに、人為的に死んでしまうことはさらに辛いのだということを漠然とでも感じるのではないのかなあと。 私はね。本当いうと、やたらと「動物飼いましょう。情操教育にいいから」と言われるのが嫌な人だったんですね。(^^; それはですね、動物が苦手な人だっているわけだし、動物を飼えない環境とか、飼えない身体(アレルギーとか)の人だっているわけで、そういう人たちにとっては「飼うことが正しいのだ」と言われることは苦痛でしかないんじゃないかと思ったのですよ。 犬や猫が嫌いな人もいるでしょう。 よく他人は動物好きには悪い人はいないとか言いますが、だったら動物が嫌いな人はみんな悪い人なんかいって言いたくなる天慈です。 動物嫌いな人にだっていい人はいるはずだし、動物大好きな人にだって悪いやつはなんぼでもいますもん。 まあ、そうやって動物が飼えなくても、人間の死だって経験することだってあると思いますしね。祖父母とか近所のおじいちゃんおばあちゃんが亡くなるとか……そういうことを経験するのも、また死というものを経験するのと同じだと思います。 私なんかも小2の時に大好きだった父方の祖母が亡くなり、いまだに通夜の夜のことが忘れられません。 もちろん、だいぶ小さい頃のことだったので、棺桶に横たわっているおばあちゃんが「死んでいる」というのは理解できても、悲しいという気持ちは起きなかったと記憶してます。それが、最初の死の経験でした。それ以降、母方の祖父母を見送り、そして近年では舅を見送り、だんだんと自分に死が迫ってきているということに時々気付かされることがありますけれどね。 過激かもしれませんが。 死というものはどういうものか、キッチリと周りの大人が子供に叩き込むことだと思います。 ネットがどうのこうのとか、虐めがどうのこうのとか聞きますが、そういうことを議論するよりもまず、個人個人が個人個人に対して「死とはどういうものか」を恐ろしさや悲しさとともに教え込むことだと思います。多少の押し付けがあっても、それはしかたないと思う。 とくに、幼い子供にはそれくらいのことをしないとダメなんじゃないかと。 何かに対しての恐ろしさや悲しさ辛さは、マイナスだと思わずに、多少なりとも感じさせないと、柔軟さは生まれないのかもしれない。 そう思うと、私が子供のころに様々な恐怖や悲観を感じたことはマイナスではなかった、無駄ではなかったのかなあと、そう思えて多少救われるかなあと思います。 友達が言ってたこの言葉が、さらに私の目を開かせてくれました。
私の場合は、半分死んで生まれてきたわけで、もしかしたらあのまま息を吹き返さなかったかもしれない。そう思うと、私はここでこうやって生きて物事を考えてなかったかもしれない。この世界は、私という存在がいない世界だったのかもしれないんだと思うと、命って不思議だなあなんて思うし、せっかく拾った命、捨てるのも罰当たりな気がしないでもないですよねえ。 それに、けっこう私は私が好きですしね。(^^; そう思うと、私は自殺はきっとしないでしょうね。そうであれば他人も殺すなんてことはないと思うし、実際、殺したいと思っても自分がかわいいから殺せませんよ。(^^; で、友達が言ったこの言葉に大いに頷いています。
私もそう思います。(^^) そういえば、新聞に書かれていたこのキーワード「コミュニケーション」についてなんですが。
大人でさえもうまく対処できないのです。 子供がうまく心の処理ができるわけがない。けれど、少なくとも大人にはきちんと対処できる人はいる。そういう人が、言い方は悪いですけれど「目を光らせている」のも必要なんじゃないかと。 私も目を光らせなくては。(一応してますけれどね) +++++++++++++++++ 今日はほとんどサイトのページ作りに没頭してました。(笑) あ、もちろん、連載小説も書きましたよ。更新は夜になると思います。 旦那さんはゆっくりできたかな。(^^; |