2004/5/6(木)晴れ、またしても辺りが黄色くなるくらいの風


いやーもう参りました、ゲクトが使えず。

朝から連載小説の執筆しようと思ったんだけどそれができない状態で。
今現在(午前10時過ぎ)も使えないので、ノーパソでとりあえず日記を書き始めてます。
ええ、ノーパソで一応ネットもできるし小説も書けることは書けるんですが、小説のほうは昨日途中まで書いたのがゲクトに残ってて、今はそれを取り出せないんですよ。

昨日はいろいろソフトのインストしてたんですが、で、なんでそうなったのかわかんないんですが、ソフトのインストやったあとってだいたい再起動ってかけるものでしょ。それがね、なんでか立ち上がると「正しく終了されませんでした。ディスクのエラーをチェックします」って出ちゃったんですよ。しかも、標準スキャンではなく完全チェックになってしまってて、これがもんのすごい時間かかってます。昨夜11時ごろからそれやってるんですが、全然終わりません。
今クラスタチェックやってます。これ見て思い出した。去年、このノーパソでもクラスタチェックしたなーって。あれは手動じゃないとできなくて、旦那の代わりに夜中3時過ぎまでやった覚えが。

でもま、しかたない。旦那も「どうせしなくちゃならんことだし」と言ってました。
なんかね、動きがすごく悪くて「むっきー」となってたんですよね。旦那の言うことにゃ、リソースが足りんとかいうことですが……天慈にゃ何のことだか。(爆)…む、旦那にどつかれそうだな。(-_-;)

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この連休でゴミがたまってしまいました。それはまあどこの家庭でもそうだと思うんですが。

今朝はね、そういうわけで東側のベランダにゴミ袋にゴミを入れて明日の収集に出すためにと用意をしてたんですよ。
ゴミ入れの蓋つきポリバケツは二つあるんだけど、ひとつはビン・カンを入れてるので生ゴミとかを入れるポリは一個しかない。けれど、ゴミはそれに収まりきらないので、しかたないので口をしっかり結わえてベランダに並べてたわけです。

ところが、さっき洗濯物を干しに出たら、そのビニール袋が破られて生ゴミが散乱してる。

「え〜どうして?」となった。そしたら、今ガタンと音がしたのでベランダを窓から見たらカラスが二羽いる。あー犯人はカラスかー。
いやーしかたないな。生ゴミの分は何とかポリに入れるか。いくらカラスが好きな私でも、いつかれちゃ困るし。うーん、早く明日になってほしー。気になるじゃんか、ベランダが。

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久々新聞ネタいこうかな。

『最初は好きなことを好きなように書いただけ』

という京極夏彦さん。それが、

『二作目から先は編集者から依頼されたので書いた』

と言ってます。

これだけを聞くと、この人と私の執筆スタイルは違うなあと思った。
好きなことを好きなように書いたという点では同じですが、依頼されたから書いたということに私は抵抗感があるから。

『僕はおばけや妖怪が好きですが、注文されたものをできる範囲で職人のように作ることしかできない』

職人という言葉にも抵抗がある。もちろん、それを否定するわけではなく、ただ私自身が自分に対して、小説を書くということを職人であるとは考えたくないという気持ちがあるからなのね。
確かに、小説という「商品」を「作り上げる」という考えであればそれもありうる。それで人々が求めているものをちゃんと提供できればいいのだし、実際彼はそれを成し遂げているわけだからそれもひとつの執筆スタイルなのだろうしね。だからこそ、根強いファンもついているわけだし。

ただ、私とは違うスタイルだなあってことだけだよ。

けど、私もリクエストで小説を書くこともある。今もそれで連載小説書いてるからね。
だけど私は、リクエストされても職人という気持ちで書いているわけじゃない。リクエストしてくれた人の提示したテーマなどを最低限尊重しつつも、私なりの妄想を働かせて書く。
それが私の小説の書き方。決して相手のことだけを考えて書いているわけじゃない。
そうじゃないと私は執筆が進まないから。だから、私はやっぱり職人としての作家には向かないんだと思う。

『小説を通じて自分の主張が世の中に広まるなんて考えてないし、小説家がそんなことを言うのはみっともないと思っている』 by 京極夏彦

これはわかる。自分の主張が広まるだなんて私だって思っちゃいないし、それに広まることが果たしていいことかどうかも疑わしいしねえ。
ただ、京極さんはどう思っているか知らないけれど、私は主張というか、自分の想いは小説で表現したいなあって思っているよ。
自分が日頃から思っていることとか考え、そういうものを小説に織り込んでキャラに代弁させるってことは昔から私はやってきているし、そういうことをまったくしたことない作家っていないんじゃないかなあって思うよ。

とまあ、つけつけと言いましたが、私は京極さんという人物は好きですよ。(笑)
この言葉には「まったくそのとおり」と思いましたもん。

『どこにどんな文字を置くか、ということにまで責任を持ちたい。どんな情報もプレゼンテーション次第。見せ方を大事にしないというのは読者を大事にしないのと同じだと思う』 by 京極夏彦

私もそう思うんだけど、ちょっと私と考えが違うのは、私は読者のことを念頭に置いて見せ方を考えてるわけじゃないということ。
これは前にも書いたと思うけど、見せ方をいろいろ工夫するのはすべて自分のため。自分か一番見たいと思っているレイアウトで文章を書いているんだよね。で、それを一緒に楽しんでくれる人が一人でもいたらそれで満足です。
確かに、たくさんの人に見てもらって好きになってもらえたら嬉しいけれど、まず自分が楽しめなくちゃ他人をも楽しませることはできないというのが持論だから。
もっとも、京極さんは京極さんで、まず読者ありきというスタイルが一番楽しいと思っているのでしょうけれど。そうじゃなきゃ、それって小説や読者を蔑ろにしていると思いますもん。

そういや、京極さんは、

『十年以上読まれる本はどう作るか』

ということに神経を使っているそうですが、栗本さんのグインは20年以上読まれ続けていますよ。しかも、読者のことなど考えてないし(爆)、そして好きなものを好きなように書き続けているにも関わらずね。どう読まれるかなど考えずにそれだけ長い間、しかも世界最長の小説を書き続けることもすごいですけれど、それが毎回ベストセラーになるというのもすごいと思います。

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『自分をどんなに磨いても、死ぬときは自分を手放さなきゃならない。でも親しい人たちに自分を削って譲り渡していけば、死んでも魂は人の中にあり続ける』 by 白石一文

この作家のことは知りませんでした。けれど、この言葉は、読んだとき「ああ、そうだよなあ」と思ったのですね。

彼の言いたいこととは違うかもしれないけれど、私がいろいろなことを包み隠さず話してしまうのも、誰かの心にずっと生き続けたいと思っているからなんだよなあって。

それが深い愛情からくるものか、たんなる親しみからくるものか、激しい憎しみからくるものか、それはさまざまな感情なんだろうけれど、そのどんな感情と共にでもかまわないから私を覚えててほしいと、あなたの心の中に私という存在を住まわしてくれればと、そう思うから、だから自分にできる書くことで私という存在を示し続けているんだよなあって。

私を覚えててほしい。
たとえ憎んでてもいい。
それでもあなたの記憶に私を残して。

完全に忘れ去るということは絶対にできないと思う。
これもね、とても惨酷なことだとは思うんです。
たとえそれが「好きだったんだよなあ」という気持ちだったとしても、私がここで死んでいなくなってしまったら辛い経験をさせてしまうわけだし。
憎しみにしたってそう。
憎んでいる相手、へたすると「死んでしまえばいいのに」と思っている相手が死んでしまったら──極悪人でもない限り、いやな気持ちは残ります。自分が「死ねばいいのに」と思ってしまったからそうなってしまったのだろうかと、そう思ってしまうのが善良な人たちですから。

けれど、私はやはり人と関わらないではいられない。

好きな人とは話をしたいし、自分のことを好きになってもらいたい。
だから話し掛けてしまう。いずれ別れはくるとわかっていてもね。
触れていたいと思うものなんですよ。

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熱く生きてくれ

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お友達の亜紗美さんが日記で「愛している」という言葉よりも「大切にするからね」という言葉が好きだと書いていました。それで思い出したこと。
ガクトさんが自分のファンのことを「大切な宝」と言ってたなあって。

『これは恋愛感情に近いよね。遠距離恋愛してる感覚に近いかな』 by Gackt

『にわかファンは別として、僕のファンは、音楽だけじゃなくて、考え方、生き方も含めて、信頼してついてきてくれるわけだから。"だから、Gacktなんだよね"っていう言葉を言ってくれるファンは、もう、家族だよ』 by Gackt

うーん。。。にわかファンというのが、どういうのをそう言うのだろうかと気にしつつ、私はファンといっても普通のファンとはちょっち違うような気もしているのですよねえ。
けれど、私はガクトさんがキレイだから、歌がいいから、と、それだけでこれほどまで入れ込むとこまでいくことなかったと思うので、ガクトさんの言うとおり、彼の考え方や生き方に惚れたわけです、そのいい面もアイタタな面もすべて含めて。(爆)

そうですね。

私のことも、ある人は「いいことばかり言ってるわけじゃなく、いけない発言もしているから」と言ってくれたことがあります。そこがいいかなと。
何というか、人って全ての人が矛盾を抱えているものだと思うわけです。
で、人によってはそういう矛盾を隠そうとする人もいるでしょ。

私は隠さない人が好きだなあって思う。

ガクトさんなんか、今まで見れるだけの発言っていうの見てきたですけれど、意外と矛盾したこと言ってたりするんですよ。(笑)
けれど、私はそれでいいと思ってます。
ええ、昔は大嫌いでしたよ、そういうのって。(爆)
少し前まではけっこうそういう矛盾っていうの許せないとこがありました。
けれど、今はそうでもないな。
矛盾をある程度許せるようになったら、少し生き易くなってきたですもん。
だから「この間言ってたことと違うじゃん」となっても、それほど怒ったりしないようになったと思う。
受け入れられない何かっていうものがなくなったなあと感じたとたん、ふーって心が軽くなったかな。

で、さらに「大切」という言葉で、これ前に日記で書いたかどうか覚えてないんだけど、ガクトさんが「素晴らしきかな人生」でこんなこと言ってた。

『ファンの人たちはすごく大切な存在だよ。ただ、すごく大切な存在だからって、その人たちに媚びて何かをやろうなんて全然思っていない』 by Gackt

で、自分が死んだとしても泣いてほしいなんて思わないんだって。「ガクトだったらしょうがないね。あそこまでやってくれたら十分じゃない?」と笑ってくれたらいいかなって。
それもすごいなあと思うけど、それって私もなんとなくわかる気がする。

一番辛いのは、自分が死んだことで嘆き悲しんで死んだように生きられたり、最悪、後追い自殺なんてされることであって、そうなってしまったら、いったい自分は何のために生きてきたんだろうってガクトさんは思うのかもしれないね。
何というか、死んだことを嘆き悲しまないということは冷たいように見えて、それくらいの愛情しかなかったのかと思われがちだけど、そうじゃないんだよね。
もちろん、ガクトさんだって、今までに大切な人たちを何人も見送って、そのたびに嘆き悲しんだと思う。それは絶対間違いない。それなのにそういうことを言うなんて、と思いがちだけど、だからといって、そういう嘆き悲しむ人たちを蔑ろにしているわけじゃなくて、だからこそ、もっと強く生きてほしいと思っているんじゃあないかなあって思うわけです。自分も含めてね。

きっと、自分の存在で、強く生きていくことを望んでいる。

それは生きている今でも、死んでしまったあとでも、「Gacktっていう熱く生きた男がいたよね。あの人のように熱く強く生きていきたいよね」と、そう言われるのが、もしかしたら彼の願いなのかなあって、なんとなくそう思った、そんな午後のひとときでした。

うーむ。。。久々に語り倒しちゃったぞ〜。
もし、ガクトさんがこれ読んだとしたら、絶対苦笑するかもね。
いや、大爆笑するかも?(爆)


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