2004/3/27日(土)今日もいい天気だねえ


男っていうのは言葉より行動で示す───

この言葉はハガレンのヒューズさんが言った言葉です。何も言ってくれないエドとアルに対して幼馴染のウィンリィが信用してもらえてないとこぼしていた時に言った言葉です。
けれど、エドもアルも互いに相手に対して聞きたいことがあっても聞けなくて、それが他人からの思いもかけぬ言葉で動揺し、自分たちがいかに相手のことを知ってなかったかを思い知り、勇気を出して聞いたおかげで、長年抱えてきた疑問を払拭したわけです。で、それを見た彼女は、そのヒューズさんに「やっぱり口で言わなきゃ伝わらない事もありますよね」と言ったこともまたひとつの事実だなあと思います。
直接伝えなくても伝わることもあれば、時に勇気を持って問いただすことも必要。頑なに一つの考え、行動にしがみつくのではなく、柔軟に対処できるのが真に出来た人間であるということですか。
まあ、すべての人間がそうではあれば、悲しい誤解とか生まれなくていいのでしょうけど、それもまたただの理想であり、決して叶うことのないことなんでしょうね。それはもう人間が人間である限り、しかたないことである。けれど、その理想に何とかして辿り着こうと必死に生きるのがいいのでしょう。

人の、だけでなく、ペットなどの死も辛いものです。

私も去年ジャンが死んで悲しい思いをしましたし、それまでに飼っていた犬や猫の死に何度も立ち合ってきました。以前「アマゾンの神」という小説をUPしたときに、そのあとがきで犬猫を飼うということは命の大切さや思いやりを育むというようなことを書きました。それは昔から大人たちが子供たちに言ってきたことです。情操教育という言い方をしますよね。だから、学校では生き物を飼ったりしているわけなんですが。それはそれでよいことではあるんです。確かに命の大切さを学べるのですから。
けれど、こういう言い方をするのもまた冷たいのかもしれませんが、命の大切さを学ぶという理由で動物を飼うというのは、人間の身勝手さとも言えるのではないかとも私は思うのです。ただ好きだからという理由でも飼えないことはないと思うし。けど、そういう場合、きっちりルールにのっとって飼わなければ周りにも迷惑をかけるし、飼われた動物もかわいそうですよねえ。

人間以外の動物を飼うということ自体、果たしてよいことなのかどうか、それを追求したいと思って書いたのが「アマゾンの神」でした。
結局は、どれが真実よいことなのかなど誰にもわかるわけはないし、そして、決め付けることもできないのだということしか導き出せなかったわけですが。つまり、己の信念だけが「正しいこと」なのだということしか。
この物語をUPした時に、私は「キレイ事だけでは生きていけない」と書き、それに対して「それでもキレイ事が通用する世界になってほしい」と言ってこられた方がいました。
それはもちろん私もそうです。けれど、理想が叶ってしまうことは、本当によいことなのだろうか、人間の抱いているあらゆる理想がすべて実現した時、この世界はどうなってしまうのだろうかと、私は思ってしまうのです。すべてが叶ってしまったら、単純に考えて、もう何も叶えたいものがなくなるということです。そうなると、私たちは何かを掴み取ろうとして努力することもなくなるのかもしれない。いや、掴んだ理想を維持しようとする努力をするのかもしれない。えてして掴み取る努力よりも、維持する努力のほうが何倍も大変であるということは周知の事実ですから。だから、叶ってしまってからそういう心配はすればいいっていうのはわかってはいるんですけどね。
でも、やっぱり私はすべての理想、願いが叶ってしまったら、もうあとは滅ぶしかないような気もしています。

というか、やっぱりまた話ズレちゃいましたが。(^^;

ハガレンではエドとアルは死んだ母親を生き返らせようと、それで錬金術で人体練成をしちゃうわけなんですが、もちろん、人体練成などご法度です。まあ、その禁忌を犯したせいで、エドとアルは身体を失ったわけなんですが(わかりやすい等価交換だよねえ)、彼らの師匠も彼らと同じようなことを過去したわけです。
その師匠のところに、近所の女の子がやってきて、死んだ猫を直してくれと言います。壊れたおもちゃを直せるのに死んだ猫はなぜダメなのか。子供には死んだものを生き返らせることはやってはいけないことなんだということは理解できません。
子供だけでなく、大人だって、悪いとはわかっていても、どうしても生き返らせたいと思ってしまうことがあるはず。どうして生き返らせてはダメなのか、それをぐうの音も出ないほどに完璧に説明できる者は絶対にいないと思う。ただ、それは神の領域だからとか、そういうことしか言えないのだと。
神の領域───人間が人間を作り出すということは最大の禁忌。
けど、思った。
エドとアルとウィンリィが、ある妊婦さんの出産に立ち合ったのだが、その時にエドが言った言葉。「錬金術師が何百年もかかって未だ成し得てない"人間が人間を創る"ことを女の人はやってしまう」と。
そうなのだ。当たり前すぎることなんだけど、人間は人間を簡単に創造できるんだよね。あまりにも簡単すぎることだし、それ自体は自然なことなのだという認識で私たちは捉えている。けど、これって神と同じようなことをしていると思うんだけどな。
だけど、エドはひとつ間違っているよ。女の人だけじゃ人間は創り出せない。男と女と二人いなければ創り出せないわけだから、つまり、そう考えるとやはり神と人間は違うということかな。

死について書いていたら死を呼び寄せるとか、霊について語っていたら霊が寄ってくるとか、そういうことを世間では言いますが、なら、神について語っていたら、神よ、ここまで来てくれますか? いろいろ聞きたいこととかあるし。でも、等価交換でなんて言われたら、やっぱり私も身体を持っていかれちゃうのでしょうか。くわばらくわばら。(爆)

そうそう。エドとアルが無人島で必死になって生き残るというエピソードがあったのですが、ああいうときってやっぱりね「食うか食われるか」の世界になっちゃうよねえって。
最初ウサギを獲ったけど、かわいそうで殺せなかった二人ですが、最後には生きるためにウサギを殺してそれを食べます。あれを見てウサギがかわいそうだとか言う人間もいるかと思うけれど、それなら、自分たちが毎日食べている肉はどうよって。自分たちが手を汚してないだけで、誰かがその肉の動物を殺しているわけだよね。まあ、それだからこそ、肉は食べない菜食主義の人たちがいるんだろうけど。けど、これも前に日記に書いた覚えがあるけど、植物だって生きているんだよね。それを食べるという行為は動物を殺して食べているのと同じことなんだよ。だから、私は菜食主義こそ、一番の偽善者だと思っている。
そういえば、そのエドとアル、ウサギをやめて魚を獲ることにしたけれど、魚も生きているんだよねえ。あと、話には出てこなかったけれど虫とかも食べる場合もあるだろうし。どうしたって人間は他生命を食べていかなければ生きていけないわけだ。生きていること自体がそういうものなんだからねえ。
ただ、エドとアルがウサギを殺して食べるとき、ちゃんと手を合わせて「ごめんな」と言っていたのがよかったなあと思う。
ああいうのって、猟師さんがそういうことするよね。感謝して食べ、生きる───それがあれば何も心配することはない。そう思ったです。
というか、菜食主義の人も、ちゃんと植物に対して「ごめんね、ありがとう」と感謝しつつ食べてると信じたいです。だから、動物を食べるときもちゃんと感謝してる人のことも認めてよね〜なんてね。(^^;

う〜ん。やっぱりハガレンはいい。私、この作者に惚れましたわ。(^。^)ほほほほほ〜(爆)

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昨日はカリ城(カリオストロの城)やってましたね。息子も喜んで見てました。「ルパンだ、ルパンだー」と。そういや、ガクトさんはガンダムのセリフを覚えてて空で言えるみたいだけど、うちの旦那さんもカリ城のセリフは空で言えますよ。(爆)
あと、リアルの友達でもそういう人がいて、高校の時にその二人、教室でセリフ喋って寸劇してました。もちろん、その二人は演劇部でしたが。そのうちの一人はいちのせクンでもあります。(笑)
メル友Mさんも昨日は見たようです。カリ城に対する熱き想いの伝わるメエルが届けられました。(^^;
みんな好きなんですね、カリ城。旦那が言ってたですけど、カリ城を実写でするとしたら、ぜひルパンを筧さんに演じてもらいたいなあって。五右衛門は京本さんがいいって私が言ったら、渋い顔してましたが。(^^;
次元は誰がいいかなあ。ちょっと思いつかないよねえって二人で話してました。あと、不二子ちゃんは「和香ちゃんがいい!」なんて旦那が言うもんで、(ーー;)むっとした私。(爆)「いや、紀香ちゃんがいい」と対抗したら、歳がいき過ぎてるだとヌかしやがった。(`´メ)むっきー。だってさー、不二子ちゃんだってもういい歳でしょ? たぶん。(ヲイ)
なんて、おバカな話を夫婦でしておりました。_(^^;)ツ

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実は私、ひとつ気になってたことがあるんです。(^^;

昨日、健康保険の督促が来たから払いに行ったと言ったじゃないですか。でね、考えてみたら、旦那は11月から正社員になったわけで、健康保険もすでに給料から天引きになってるわけですよ。で、これって二重払いなんじゃないかなあなんて思いつつも、督促が来るからずっと今まで払い続けてたわけなんですけど……で、それを昨日旦那に言ったらば、ちゃんと健康保険の係に聞きなさいって言われた……(;_;)うるる〜。旦那は戻ってくるよって言ってたけれど、ほんとに戻ってくるんだろうか。

今思ったんだけど、年金はちゃんと通達がきたんですよね。でも、それって年金は銀行引き落としにしてたからだったのかなあなんて思ったり。もしかして、社会保険に切り替わったときに市役所に手続きとかしなくちゃならなかったのかもしれない。ううう……月曜日に電話で聞くか…それとも直接市役所に聞きに行くか……しなくちゃならないよねえ? 12万強ですよ、払ったの。ちと痛いですよ。戻ってくればすごく助かりますよ、うん。。。でも、あたしがするのか〜「それくらいはしてくれよ」と言われちゃいました。はい、そうですよね。旦那さんは仕事ですし、そういう手続きをするのが主婦の仕事ですからして。。。ふぁいと〜お〜。(へろへろん)

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ああ、何度も何度も言うので、またかとお思いでしょうが、でも、もうそれさえもどうでもいいやって思えるようになったのも、やっぱ中島さんのおかげだなあと思います。もう、大好きです♪

今日の中島さんの日記読んで、確かに、それさえも「当たり前のことだ」と言う方もいるかと思いますが、でも、私は何度も何度も同じことを聞いたとしても、そのたびに「おおっ、そうなんだよねえ」と頷きたい人なんで、いいんですよ、当たり前のことだったとしても。私の胸に響くかどうかが問題であって、他人は関係ないことですもん。

『この世界に私と感覚を共有してなかったり、まるきりあわない人間なんて星の数ほどいるんだけど、それはどうという問題ではない、ということ。まあ「お互いさまである」というか、しょうがないんだ、というか、「それはそれだけのことなのである」という』 by 中島梓

感性を共有できるっていうのはすごく恵まれたことなんだって。

中島さんは、

『ある小説の、愛読者を得るのも幸せなことだけど、愛読者になれる、というのもとても限定された幸せであって、誰もに可能なものじゃない』

と言ってました。

受け取る側の人間が、ちゃんと受け取れなかったのは自分ではなく発信者のせいなのだとよく言いますが、そういうことは言いたくないですよねえ、少なくとも私は。
もちろん、私自身もきちんと発信者の意図したものを受け取っているという自信はないんですが、たとえ、少しズレて受け取っていたとしても、それがマイナスではなかったとしたら、もっと私は自分に自信を持つべきかなあなんて思ったり。

ほら、ガクトさんも言ってるように、自分が届けたものが違ったふうに解釈されてもそれでも構わないというようなこと言ってたでしょ。その人なりの世界観を構築して楽しんでくれればそれでいいって。まあ、ガクトさんの場合は、たとえばマイナスで受け取られたとしても、それでも「どーでもいいよ」と笑っているような気もしますがね。

つまりは、こういうことだ。他人など気にせず、私は私なりに楽しくやっていこうって。(笑)

ということで、プロフィールに過去の遺物である「SIS記憶ボックス」を更新しました。見てください。天慈の原点とも言うべきものが語られています。まあ、SF好きな人にしかわからない世界かもね。それこそ、一緒に感性を共有できる相手としか語れないでしょう。まあ、一緒に語る相手がいなくても、私自身が読み返して「やっぱいいよなあ、SFって、宇宙って…」となれる空間ということで、またこれからもずっとそのまま公開していけたらいいなあと思っています。(^^)


2004.03.27 13:3



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