2004/1/14(水)雪、雪、寒くて凍えそう〜(><)


昨日も書いたけど、「幸せ」について考えてみた。

幸せかどうかっていうのは「価値観の違い」でガラッと変わりますよね。
たとえば、運がいい人って幸せか───と考える。これも、何かに応募したりして「きゃー、いっつも当たって幸せ〜」となるかもしれないし、当たったせいで不幸になることもある、宝くじなんてその最たるものでしょ。
私なんかは懸賞とかってほとんど当たったことないです。当然宝くじだって当たらない。ただ、当選確率ゼロってわけじゃない。私の母のように末等しか当たったことないわけじゃなく、とりあえず一度は一万円を当てたことはあります。あと、懸賞だって、ガクトさんの香水ビンやトートバックは当たらなかったけど(爆)、今までに雑誌のテレカが当たったこともあるし、腕時計も懸賞で当てたことあったなあ。まあ、それは一等賞ではないけれど、少なくとも抽選で何名かに当たるっていうのに一度か二度は当たったことがあるわけで。考えたらこれも、めちゃめちゃ運がいいわけじゃないけれど、それなりに運はあるってことでしょうか。つまり、中ぐらいの運なら私も持っているということで。

けれど、出せば必ずと言っていいほど何かを当てる人がいます。ぶっちゃけ、旦那の友人にも約二名いますし、私の友人にもそういう人がいます。そして、不思議とその人たちは、みんな結婚していません。(^^;
で、今回、旦那の友人がDVDを当てたというので、前に購入したまま、まだ使ったことない新品のDVDを「ほしかったらあげるよ」となり、それで「幸せ」について旦那と話したということだったのです。
私の友達もですけれど、いろいろな懸賞に出しては当たり、一人身ということで一年のほとんどを旅行していたり、自分の時間を自由に使っているというのを見たりすると、正直「いいな〜」という気持ちがないわけではないです。
けれど、その自由には、いろいろな責任がついてまわるものです。一人で暮らしていくには、自分で稼いで老後のことまで考えなくちゃならないわけだし、誰かが面倒見てくれるわけじゃない。
それを思ったら、私はすでに自立して生きていく覚悟はまったくないわけで。
そんなことに気付いたとき、私は他人の幸せをうらやましいとは思わなくなったのです。それに、私から見て「この人は幸せそうだな」と思ったとしても、果たしてそれを本人が「幸せだ」と感じているかなんてわかりませんし。

旦那も言ってましたが、その友人が、自分が幸せだと思ってるかどうかなんて本人に聞かない限りわからないものです。案外、友人のほうが旦那のことを「こいつ幸せだよなあ」なんて思ってるかもしれないし、いやいや、もしかしたら、今の自分に満足してるかもしれないし……と、そんな感じで、やっぱり他人が誰かのことを「この人は幸せだ」とか「こいつは不幸せだなあ」なんて決め付けられないんだと思います。

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今、ある人の日記を読んでます。

読んでて思ったのですが、私の書く日記とは全然違うなあって。(笑)
違う人間が書いてるのですから、当たり前のことなんですが、けど、その人の日記読んで、ああ、いいなあ、こんな感じの日記を書く人は誰からも好かれるとてもいい人なんだなあと……またまたわかったよーなことをほざいてる天慈です。(^^;

他人を決め付けないと言ったはしからこうですからねえ。(爆)

でもね、この間、創作仲間のある人と掲示板で話したことなんですが、結局のところ、他人のことを自分の尺度で見てしまうものなんじゃないかなあと思うんですが。もちろん、全ての人がそうであるとは言いません。ただ、最初のとっかかりっていったらやっぱり「自分の尺度」でしょう。
だって、たとえば、ある人と友達になりたい、けれど、どういう人か知るためにしばらくはじーっとその人を観察し、それだけだと偏っちゃうから、その人の友達から攻めて(笑)、仲良くしたい人の情報を聞き出して分析する───なんてこと、普通はしないでしょ?
パッと見て自分の感じた想いが「いい感じ」だったら、話かけて「お友達から始めましょう」となるわけで。それが、当たり障りないごく普通の友人になるか、はたまた心の友とまで言える親友となるか、それか、最初に感じた「いい感じ」が崩れてしまって「こんなに嫌な人だったとは」となって決裂するか、それは神のみぞ知るってことで。つまり、その「パッと見たときに感じる」ということが「自分の尺度」とイコールなんじゃあないかと思うわけです。私はね、そう思ったです。

ちょいと話がズレちゃいましたが。(も〜恒例ですな)

話戻して。(笑)

そうですね、だからといって、私は私でしかないわけだから、真似して気持ちいい日記書いたとしても、ほころびが出てくるわけです。私は「気持ちいい人ではない」のですから。(^_^;)
万人に受け入れられる日記───というか、書き物は私には書けません。私が私の感性のまま書くものは、はっきり言って誰にでも受け入れられるものではないと自身思っています。もちろん、気持ちのいい日記も書こうと思えば書けますよ。物書きのはしくれですからね。それくらい書けなくちゃいけませんもの。けれど、私は嘘は書きたくないし、自分の正直な気持ちしか書きたくない。
ただ、私も人並みに「嫌われたくない」という気持ちが働いてしまうので、それでついコミュニケーションの場では「言い訳」をしてしまう───というのが以前の私でした。
自分の考えに自信を持っていれば、言い訳なんかする必要はないのにね。

言い訳しない、そんな人になりたいと今は思います。

とまあ、そんなわけで、これからも私は「私の日記」を書いていくと思います。どうぞよろしく。(って、まとめに入っちゃったよ〜^_^;)

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でまあ、それだけじゃなんなので。
その人のとこから拾ってきた言葉。これ、その人の尊敬する漫画家さんの言葉らしいのですが。

『愛してくれない人でさえ 愛すことの出来る人に私はなりたいと思っています』

その人も「そんなの理想論」だと言ってましたが、私もその人も「でもね…」という気持ちがある。そういう人になりたいという気持ち。

そういえば、今朝の新聞に書かれていたこの言葉(日野原重明さんの言葉なんですが)を思い出しました。

『恨みの連鎖反応には終焉がない。他人はなかなか変わらないが、自分は変えられる。自己犠牲なしに愛はありえない』

まあ、↑の言葉は、テロや戦争のことからこの言葉が出てきたわけですが、そこまで大きな戦いじゃないにしても、結局のところ、小さな個人レベルの戦いでさえもままならないというのに、世界レベルの戦いに何か物申すってことはできないよなあって。けれどまあ、身近なところから意識の変革はできるわけで。

以前の私は、まるで鏡に映したかのごとく、愛してくれないから私も愛さないというところがありました。口では「嫌われても好きだよ」と言ってましたし、自分でもそれを信じ込んでたんですけれど、どうやらそれは幻想だったんじゃないかと今は思っています。けれど、やっぱりそれはよくないことだと気付いた。だからこそ、愛してくれないから愛さない、ではなく、愛してくれない人も愛する、そんな人になっていきたいなあって今は改めて思っています。で、それこそが「自己犠牲な愛」かなあって思ったし、そういうところを見せていくことで、たとえば自分の子供もそういう気持ちを持ってくれるかもしれないし。やっぱ「愛」は大切だよね。うん。

それに、今の私は大好きなガクトさんに恥じない自分になりたいって思ってるから。(って、言ってろって?^_^;)
そうそう、そのガクトさんですが、この間録画しておいた「ジョン・レノン・スーパーライブ」を見ました。ガクトさんは「LOVE」を歌っていましたが、さすが、ガクトさん「愛」「愛」(英語で、ですけれど^_^;)と歌い上げてましたね。よっ、愛の伝道師っ!(爆)

てか。

お友達が日記で書いてたことなんですが、ああ、そうだなあ、私もそれ目指したいよなあって思いましたです。

『読んでも読んでもキリがない!というくらい、字でいっぱいのページにしたかったんです』 by金田

できるかな、私にそれが……え?まだこれ以上増やすの?という突っ込みは却下。(爆)

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昨日もですが、今日も山は雪でしょうねえ。タヌキさんとも遭遇する旦那さんですが、どうかお地蔵さん(笑)、旦那さんをお守りください。
そういや、プロッコリーを山ほどもらって帰ってきてたですが(お客さんから)、一度に食べきれないので、茹でて冷凍しておけよと旦那に言われてたんだ。ちゃんとやっとこ。また腐らせてしまったら大目玉だろうからなあ。
それと、ちゃんとウェブの仕事もやっておこう。天慈さんは頑張るでよ。見ててよ、ガクトさん。(見てませんってば^_^;)

あ、それと。「乱歩R」見ました。(^_^)v

三代目明智小五郎を藤井隆さんがやってましたけれど……いい味出してましたね〜。あの人けっこう役者向きかもと思いました。それにしても「人間椅子」いいなあ。(笑)なんというか、今日の中島さんの日記で書かれていたことを読んで、その「人間椅子」を思い出しました。つまり、まったく直接描写なく官能小説を書けるか───ということだったんですが。まさに、この「人間椅子」なんかそんな感じだなあって思いましたね。


2004.01.14 14:10

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