2003/06/13(金)曇り。


11:26

誰よりも深く心溺れて、ずっと変わらない二人だと信じた(「月の詩」より)……by Gackt

タイトルと内容関係ないけどー、なんかそんな気分の朝です。(笑)

今日はひとつUP予定の詩があります。
けど、ちょっと思うところあって今すぐにUPするのはやめました。
ただ、作業の進み具合によっては本日中にUPできるかもしれません。けれど、日記にはリンクはらないと思います。本館のBBSで告知すると思うので、ご興味ある方はそちらのほうでご確認ください。

サイトで公開している詩の中でも二種類の詩があるんですね。まったくの創作詩と自分の気持ちとか体験とかを詩作したものとに分かれるわけです。こういうジャンル分けっていうのはほんというとあまり好きじゃないんですけども。(現在、創作詩は別サイトで公開中)

で、まあ、感じたとこ。

私の小説のキャラの心情などを歌った詩(昨日も書いたマリーの詩とか)はもちろん創作にあたるわけです。なんてったって男の立場で歌うものですからね。たとえば、ガクトさんなんかも女性の立場から作った歌詞とかもあったりするわけですし、そういう詩っていうのは創作詩でしょう。
反対に自分の気持ちとかを歌ったもの。たとえば昨日の「階段」(音楽鳴ります)なんかは、もろ私の過去の経験を題材にして書いたものです。
ああいう詩っていうのは、やはり共感が多いみたいですね。

で、それを踏まえて最近の恋愛詩についてなんですが。

恋愛───私にはやはりわからない世界です。
あれだけ情熱的なものを書いてると人にも言われるし、自分でも思うんですが、でも、やっぱり私は恋愛に溺れるってことできないと思いますね。

何度も言うようですが、私はたった一度の恋愛経験しかありません。
今ガクトさんに抱いている片想いの経験は過去に何度もしましたが、互いに好きであると確認し男と女として付き合ったのは旦那だけです。(けど、アタックしてきたのは向こうだしーだいたいあたしはあんたなんか嫌いだったんだよっ^^;)

旦那を愛しているかと言われたら、正直言ってわかりません。(爆)

好きで好きでたまらないという気持ちは、旦那への気持ちより今はガクトさんに対する気持ちのほうが勝っているという確信はあるし、過去私を好きだと言ってくれた人たちと旦那は同列な存在ですもんね。まず向こうが私を好きであって、私は好きじゃないのよー、他に私はちゃんと片想いしてる人がいてねー、あんたなんかお呼びじゃないのよーっていう感じ。(ひどい)
で、子供の頃は、もちろん自分の気持ちが何にもまして最優先だったから、どんなに「好きだ、付き合ってくれ」と言われてもまったく考えられないことだった。その人がステキな人だとしてもね。
ただ、今は──というか、旦那に交際を申し込まれたときは、子供の頃とは違い、だいぶ他人の気持ちというものを考えることができるまでに大人になってたということで、まあ、なんだな、その、ほだされたってやつですか。(^^;;;

どういう恋愛がいいのか。

それは人それぞれだと思う。

やっとアニメ「GTO」を全部見たんだけど、最後のほうでいじめられっこの男の子のことをほんとは好きなくせに素直になれなかった女の子が、やっと自分の気持ちを叫ぶところがあって、それを鬼塚が「恋愛っていうのは周囲なんか目に入らなくなるもんだ」と言ってました。確かそんなセリフだったと思うけど、この場合は恋愛じゃなくて「好きだっていう気持ち」だと思うんですが、まあ、片想いだろうが両想いだろうが、好きな気持ちは変わらないわけで、本気で好きなら周りはまったく関係なく目に入るわけない。当たり前のことすぎて、なんか忘れてたような気がする。

だけど、私は自分の意気地のなさのせいで、今まで自分から好きになった人と一度もうまくいったためしはなかった。その「階段」という詩にも書いた、別れ別れになってしまったその人に、ちゃんと自分から気持ちを伝えることができてたら、あるいは初めてお付き合いするということできたのかもしれません。どうやら向こうもまんざらでもなかったみたいだし。ただ、遠距離恋愛だったでしょうけど。(笑)
けれど、いくら後悔しても、過去はどうしようもない。それは終ってしまったことだから。

そうだな。
私は現実で恋愛をするってことは、もうこれからはないと思うな。てことは、たった一度の恋愛経験しか私にはないということになる。それもすごいかもしれない。けど、そういうことって昔の人たちってけっこうそうだったような気もする。ふーん、私って案外古いタイプの人間なのかも?(爆)

私は妄想で恋愛いたしまする。

実際にガクトさんと恋愛することはないから、きゃーきゃーと一人騒いで恋してる気分を味わってればそれで満足だし(たとえ自慰行為だと言われてもね)、けど、その気持ちが生きる活力になってるわけだし。
もちろん、それだけじゃなく、愛されているという気持ちも活力になってますしね。息子のためにもっていう気持ちも活力になってるし。
まあね、なんだかんだいっても、一番どんな私でも受け入れてくれているのは旦那ですしね。私を御することできるのは、こいつしかおらんわなー。(^^;;;

というか、昔の私もちと懐かしいかな。周りの忠告なんかてんで耳に入らなくてさ。騒ぎまくってた恋だったー。あーバカばっかやってたよなあ。。って、今も変わらんって、そこっ、思ってない?……シバくぞ。(爆)

さってと、作業、作業〜♪

22:06

「エッセイ『お歳暮』」-軌跡の残香

今年もまたお歳暮の時期がやってきた。

最近では部下から上司に贈らないようにしている会社が多いらしい。あと、会社と会社の間でも贈らないようにしているところもあるそうだ。
自慢することではないが私も他人に中元、歳暮の贈り物をしたことがない。
それほど懇意にしている人がいないということもあるのだが、お世話になったから物を贈るという行為が私は嫌いなのだ。いや、そう言ってしまうと少し語弊があるかな。
気持ちとして心ばかりの品物を贈るというのは、確かにコミュニケーションとしてよいことだと思う。でもそれは夏とか冬とか期間を決めなくてもいいのではないか。

お世話になったらお礼の手紙を差し上げるとか、それが堅苦しいのなら絵はがきなどに一筆添えて送ればとてもおしゃれでいいと思うけどなあ。お互いに気を使わなくてもいいし、誰だって便りをもらうのは嬉しいものだ。だから私はどこかに旅行した時など、その土地の風景が刷り込まれた絵はがきを買うようにしている。

最近頂き物で感激したのは、手焼きのクッキー、それに手紙の添えられた緑茶一袋だ。これらには心がこもっていて人の温かさが感じられる。
デパートなどでシーズンに並ぶ味気ない品物たちを雑踏の中からやっとの思いで買うのではなく、ゆっくり吟味したいものだ。
私なら意地でもお歳暮商品以外の物を選びたい。そしてみんなも中元歳暮で使うお金をもっと素敵なことに使ってほしいな。

-----------------------

この記事は、当時新聞に掲載され、初めて私に対して批判的な声を聞いた記念すべき最初の記事だと思います。(笑)
直接ではなく、私の友人の職場でこの記事の話題が上がり「これはないよねー」などと口々に不評の声が上がったそうです。
しかも教えてくれた友人も「あなたと私の考えは違うのね」と言い、少なからず私は意気消沈してしまったのを覚えています。
ただ、私の友人は「だけど、ゼッタイに贈らないっていってないからまだマシだと思った」と差し障りない弁護をしてくれたのが唯一の救いといえるかもしれないです。
それにしてもね、なんともはや、常識にしばられた人達が多いことか。といってる私もその一人には違いないんですけどね。(^^;;;

++++++++++++++++++++++++++++++

22:15

「遠くへ行きたい」-軌跡の残香

誰も私を知らない場所。

そんなどこか遠くへ行ってみたいと、誰しも一度は思ったことがあるだろう。他人はどうか知らないが、私の場合は子供の頃に、よくそんな思いにとらわれていた。

幼い頃の私は、ちょくちょく体調を崩しがちだったため、保健室と私は切っても切れない仲であった。今ではその原因が、多くの子供にありがちの心因性のものであるということを知っている。幼い者は経験も乏しいため、世界は苦痛と苦しみに満ちていると思いがちだ。そして、その反対に快楽に対しても過剰に反応してしまう。

これを言うと少々気恥ずかしいが、私は夢見る少女だった。

肉体的にも精神的にも自分が傷ついた時、多くの子供が運動することによって対抗するところを、私は本に逃げ込んだ。自分と変わらない年頃の主人公が、学校にいなきゃならない時、どこか違う場所へ冒険にでかける。主人公になりきって私は様々な空想をし、つらさに対抗した。
だが、私はそれで良かったと思っている。こことは違う場所に行ってみたいと思う、その強い思いが当時の私の心を救ってくれていたのだ。いつか大人になった時、それを実現するんだ。だから今は苦しみに耐えよう───と。

どこか遠くに行きたい───その気持ちをとめられなくて犯罪に走ってしまう、ごく少数の子供たち。自分を救うのは自分自身なのだということを、どうか知ってほしい。気持ちの持ち方次第で世界は変わるということを。

--------------------

気持ちの持ち方次第で世界は変わる───
それは確かにそうではあるのだけど、なかには「それは違う」と思われる方もいるでしょうね。
こう書いた私自身も、本当は断言できない気持ちが自分の心の底にあることを知っていますから。

でも、何かしら考えの主張をする時は、どうしても片方の意見を「こういうものなのだ」と決めつけなければ、読む人に納得させることはできない。
だけど、私はいつも「こうなんだ」と書く反面、「いや、それだけじゃない、こうでもあるんだ」と反対の意見にも真実味を感じてしまうんです。
まるで自分の内部に何人もの自分がいて、そして、それぞれが別の考えを主張しあっているみたいなんですね。だからこそ、「お歳暮」の記事で非難された時「書かれていることが本当のことだと思わないで」と、友達に向かってつい口走ってしまったのです。

私は誰かにわかってほしかったのかもしれない。

でも、やはり理解はしてもらえず「読者をバカにしている」と一蹴されてしまいました。
たったひとつの意見しか持たない人には、この気持ちはわからないのかなあと思いました。いえ、わかってはいるのでしょうけど、様々な考えを提示する人間が、常識ある人にはガマンならないんでしょうね。
「いいかげんな人間」をいかに社会が受け入れないかが、身にしみて思い知った気がしました。

22:39

世界で一番愛してるのは……ガクトさん?いえいえ、やはりそれは我が息子。(笑)

「僕ねえ、市民会館にガクトさんがライブに来る夢見ちゃった」

なんですとっ??Σ( ̄▽ ̄;)

先ほどの話です。(笑)
今夜はこれから11時にFUNでガクトさんが出るんですよねっ。その話をしてたら、息子がそう言いました、ガクトさんの夢を見たって。(^^;;;
ほおおおおおおお〜、市民会館にガクトさんが来てくれるならば、それなら歩いてでも行けるじゃん……つーか、その前にチケットが取れるかが問題ですけどー。。。(^^;;;
で、この間お隣の県にモー娘がコンサートに来るっていうのTVで見た時のあたしと旦那の会話。

「あーあ、ガクトさんもこっちに来ればなー、見に行けるのにー」
「見に行けば?」
「えー、会場まで送ってよー、あ、でもーその前にチケット取れるかどうかわかんないよなあああ」
「取れよ、愛があるなら」
「むー(ーー;)」

だったんですがー。(爆)

あたし、自分でチケット取ったことないんですよね。(^^;;;
ずっと前に谷山浩子さんがこっちに来た時も友達がチケット用意してくれて、しかも車に乗せてもらって行っただけだし、何年か前にもその友達がまたまた今度はジュリーのコンサートのチケットを用意してくれて連れてってくれたという。。。こういうとまるで箱入り娘(ネコ?^^;)みたいだなあ、あたしって。
もし、もしもよ、ほーんとに市民会館にガクトさんが来たとして、あたしは果たしてチケット取り、ちゃんとできるでしょうかねえ?……不安だ。(爆)

ところがー、息子の言うことによると「お母さん、僕の夢は25%の確立で正夢になるんだよ、よかったね、ガクトさんきっと来てくれるよъ( ゚ー^)」と言った。

25%??
どこからそんな数字が?(^^;;;

……この思い込みは、まさにあたしの息子だとしか言いようがない。(核爆)

そしてー、今夜TVにガクトさんが出るってことを知ったあたし。友達にメルメルしちゃいましたよ。_(^^;)ツ
今夜はババさまんちでご飯だったんです。で、そのときにTVで予告見たんですよね。ごめんねー、くだらないことメルメルしてー。というか、もーあたし、ケータイかまうのが楽しくってしかたありませーん。ケータイさいこー。(誰よ、この間までケータイなんて持たなくてもどーのこーのと言ってたやつはー、えーえー、あんたはそーゆーいいかげんなヤツなのよー^^;)

とにかく、おもろいおもちゃを手にした子供みたいなあたしですー。(笑)

あ、ちなみに、息子に言ってみた。

「もし、ほんとにガクトさん来たら、お前も一緒に見に行く?」
「うん」
「へー、そうなんだ?なんで?(  ̄m ̄)」
「お母さんの好きな人見てみたいもん」

…ぎゅうううううっ!!(><)/

inserted by FC2 system