03/05/22(木)晴れ


11:50

寝坊した。(ダメじゃん)

息子に起こされた。(ますます、ダメじゃん^^;)
慌ててご飯の用意して、送り出して。。。それからちょっち反省したあたし。ガシガシ家事をこなし、ずいぶん早い時間に掃除洗濯洗物とずぇーんぶ片付けた。
ちょっと昨夜は遅くまで起きてていろいろごそごそやってたのでー。。。いやん、いいわけですよね、ごめんなさいです、息子よ。<(_ _)>

というのもね。(語りだすぞー^^;)

詩作に思索しつつ試作を重ね、今日もいくいく天慈は行く〜、でもね、ガクトさん、方言ってキレイなばっかじゃないのよー。(って、またしてもワケわっかんねー^^;)

ガクトさんのラヂヲ番組過去ログを読みに行ったのです。(出た^^;)
というか、その前にこの間読んだ新聞記事の話などひとつ。(横道ですね、はい、そうです^^;)

それは「俯瞰的視野(ふかんてきしや)で見た〔詩と小説〕」というものだったのですが。
あたしも一応詩なんてものを書くので、詩の定義とかを書いてるものってついつい見ちゃうんですよね。
とはいえ、あたしは、どんな形態でも詩であると思っているところがあるんで、「詩とはこういうものだ」という言い方はあまり好きじゃないです。
んで。この記事に載っている詩人さんのほとんどの名前知りません、読んだことないです。

「ねじめ正一」「清岡卓行」「山本道子」「富岡多恵子」「岩田宏」「金井美恵子」……まだいろいろ挙げられていたけれど、全然知らない人たちです。(^^;;;
けれど、挙げられていた人の中で「島崎藤村」「室生犀星」「宮沢賢治」は、さすがのあたしでも知ってます。というか、この人たちは小説家でもあるわけなんですけどね。

でまあ、ねじま正一氏の詩作行為についてこんなことが言われていたのだそうです。

「公認の詩的言語らしさを破壊したいとする衝動が隠されており、彼にとって『詩的言語らしさは、詩の本来の力を喪失させる何ものでもない』と宣言する。が、その破壊的作風もたちまちのうちに、詩的言語として公認されてしまうのが現代だ」

うおー、言いえてるー。(><)
どんなに新しいものも出た当初はもてはやされるけれど、いつのまにか古いものになってしまうんだよねえ。あたりまえじゃ。(^^;;;

詩的言語。

あたしはそういうものにどんなものがあるのか知らない。
たくさんの詩人の詩を読んだわけじゃなく、ごく少数の、しかも偏ったジャンルの詩しか読んだことないもの。
語録が少ないあたしなので、最近ではお気に入りの歌の歌詞に書かれている言葉を使わせてもらって、それで少しづつ語録を増やしているところです。だから、基本的に日記に掲載している詩は試作段階の詩であって、あたしオリジナルというわけじゃないです。アレンジ詩とでもいうのでしょうかね。まあ、中にはそうじゃないのもあるので、そういうのはいずれサイトで飾りつけようと思ってますけど。

あたしは生活感のある詩は、正直好きじゃない。
だから、そういうのもあって、地元紙の投稿詩コーナーの詩に掲載される詩に共感が持てなかった。(ごめんなさい)
もちろん、あたしが新感覚の詩を見せてやるーっなんていうタカビーな思いで投稿したわけではなく、ただ、あたしならこんな詩が読みたいと思うものを投稿しただけだった。
サイトで公開している詩のほとんどが新聞で掲載されたものばかりだけど、あたしはああいう感じの詩をいつも求めていた。
最近では投稿するのに違和感を感じてやめてしまったけれど、やっぱりあたしは生活感のない夢のような詩が好きです。

けれど、この記事で鮎川信夫氏が詩論「現代詩とは何か」でこう言ってる。

『われわれを詩に駆り立てるものは、詩そのものの空虚な美的価値の世界にあるのではなく、詩でないもの、つまりわれわれが生きている現実の生活の中にあるものだ』

それを否定はしない。
でも、あたしはそうは思わない派だ。
あたしはいつでも……

「うつし世はゆめ
  よるの夢こそまこと」


であるから。

空虚
儚さ
夢幻
朽ちていくもの
黄昏
非現実

そういうものに恋焦がれる。

でもまあね。
その現実の生活がちゃんとした現実と感じられないというその気持ちが生まれるのも、あたしがやっぱり現実で生活しているからであって、そうなると、現実の生活から詩が生まれるというのも、あながち違うとも言い切れないかもね。

そうそう。
その、ねじま正一氏が1989年に直木賞をとったらしいのですが、そのときのあとがきにこう書いていたということです。

『詩を書く筋肉と散文を書く筋肉が別ものであることに気付いた。小説は全身のコトバの筋肉で目いっぱい総動員しないと書けない』

やっぱり、考えることはみんな一緒だなあと。あたしもそう思うもん。


でまあ、やっとこさガクトさん話に辿り着いたわけですが。(すんげー長い前ふりだー^^;)
いや、あんまし関係なかったかも。(爆)
ただまあ、言葉関係だからってことで。

なんかね、ガクトさん方言とか好きらしいんだって。(笑)
あたしも好きなんだけどね。でも、あたしはなんちゃって方言ばっかだから(何それ?^^;)いろんなとこの方言をごちゃまぜで使ったりしてて、それもどうかと思ってたり。(なら、使うなよ、自分^^;)
正しい方言を覚えなくちゃいかんだろうっていうのはわかってたり。その上でお遊びをするべきなんだけどね。ついね、新語を作っちゃうわけよ、あたしって。(^^;;;

でまあ、ガクトさん、日頃から美しい日本語を目指しているということですが。んで、方言は美しいって言ってらしたけどー、そりゃね、京言葉とかは雅な感じで聞いてても美しいだろうとは思うけれど、ズーズー弁でも、味わいあっていいかもしれないけれど、浜弁はいただけませんぜ。(爆)

これほどに汚い言葉はないっ!(爆)

というほどに汚いですー。(T-T)
いや、それがイヤだというわけじゃないです。これも地元文化ですので。胸はってますけどー。
でもね、今はどうかわかんないけど、むかーし若かりし頃、汽車通勤してて女子高生たちの浜弁聞いてて……泣きましたもん。(T-T)
あんなにキャピキャピした乙女たちが……浜弁だけはやめてほしいと思いました。
普通に喋ってても汚いよなーと。といいますか、浜弁ってどんなの?なんて聞かないでね。あのニュアンスは文字では伝えられないから。(爆)

23:40

こうなりゃヤケだ、試作……じゃねえ(確信犯^^;)、詩作について語り倒してやるぅぅぅ!!!!(≧◇≦)ノ

『俯瞰的視野で見た<詩と小説>』の続き行く。行くったら行く。(爆)

新聞に書かれていたことのほとんどが、あたしにはまったくといっていいほどチンプンカンプンでした。(爆)
あたしは短大でも幼児教育を専攻して毎日ピアノ三昧の日々を送っていただけの女でした。
シュルレアリスムだのオートマチズムだの(・_・?)となってしまうヤツです。

オートマチズム(自動記述)とは。。

『速度の誘惑に全的に感覚をゆだね、言語表現を制度的桎梏から逸脱飛躍させ、あげて「内部の全的な劇化」をめざす』

(・_・?)なんのことやら。。(爆)

自動記述なんて言ったら、あたしが想像するのに、もう感じたままをそのまま勢いにまかせてだああああああーっと書くもんだと、そういうもんだと思っちょりますが?いけませんか?(笑)

んで。飯島耕一という方がこんなこと言ってます。

『見えないものを見る』

これは気に入った。(爆)
こういうワケわかんない言葉って好き。(マテ)
でね。
この記事にこう書いてあったのですが。

『多分自動記述とは、眼を閉じた時に、次々イマージュされるものの所在をひとつの運動として絶えざる一連の更新していく情景の表現をいうのであろう』

だって。

ワケわかんないんだけど、でも、こういう表現ってあたしは大好きだなあ。
あたしなんかも、ある言葉を聞いたとき、ある場面を見たとき、突然情景が浮かんだりします。で、それを少ない語録で表現しようとするんだけど、言葉と言葉をもう何も考えずに、リズムとかそんな感覚的なものでペッタンペッタンとはっつけていくっていうことをやってるわけです。

だから、ワッケわっかんねーとなる。(^^;;;

あたし自身はわかるわけです。
だってあたしの頭にこれこれこういうのが浮かんでて、それを感覚のまま書いてるわけだから。
これがまあいわゆる小説と詩の違うところなんだろうね。小説ではキチンとわかるように書かなくちゃならないところがあるから。
でもあたしは、その小説でも詩のような小説を目指していたわけなんですが。でも、それでもある程度の起承転結はしなくちゃならない。
もちろん、詩でも起承転結って大事だと思うし、あたしもそれなりにやってるつもりです。自分なりにね。

詩に意味なんて必要あるんでしょうかね?

この記事にも書かれていましたが、言葉ってほんっと自分の自由に操ることってできません。
書けば書くほど、自分がどんなに無知であるかがわかってくるし、書くからにはちゃんと相手に思っていることが伝わらなくてはならないって思ってしまう。
もちろん、ちゃんと意思を伝えるべき文章の場合は、意味のある流れに沿った書かれ方をしなくちゃならないんでしょうけど、詩に限っては、意味のある書かれ方をしなくてもいいんじゃないかなあと。

ワケわっかんなーいっていう書き方でも全然OKじゃん?みたいなー。(笑)

詩って、意味を伝えるものじゃなく、想いを伝えるものでもなく、ただ綴られるものでいいんじゃないかなあと。
それを読んだ人が自分なりの情景なり何なりをふっと思い浮かべてくれたら、それでいいんじゃないかな。
で、あたしは、それを聞きたいほうなんだけどね。
「こんなん出ましたけどー」的な感じで、あたしの書いた詩で感じたことを聞きたいと思う。詩人さんだったら返詩という形でもらえたら、もう感無量だしね。

となるとー、あたしにとって詩もコミュニケーションのひとつってことになるのかな?



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