03/04/14(月)曇り


10:23

寝坊しました。(T-T)
大変でしたよ、どったんばったん大騒動しながらのお弁当の用意。ダメですね。ついつい「またガクトさん夢見れるかも〜」なんて思ってしまい(マテ)「あともうちょっと…」なんて思ったのが間違いのもと。いつのまにか、目覚ましまで消してしまってたし。。。でも鳴ったっけ?全然気づかなかったけど。(ーー;)
でもま、何とか間に合ってくれた。今日は大丈夫そうだ。

えーと。今ダラダラと長いもの書こうとしてたんだけど、ちょっと気持ち落ち着けて、じっくり資料読んでから書こうと思います。
お友達が中島さんの「小説道場」を読んだということなんですが、そのあとがきを読んですごく共感したと言ってました。
私がこの本を読んだのが仕事を辞めた直後だったと思うので、もう5年くらい前になります。ですから、書かれていた内容もうろ覚えで、ちょっと今読み返してみたらば……あとからあとから書かれた内容について物思うことが出てきました。で、じっくり私なりの思いを書き綴りたくなってきちゃいました。

というか。私って自分でも苦笑してしまうんですが、なんでここまで日記ごときに全力投球して書いちゃうんだろうって。(^^;;;
確かに、人によってはそれほどの長さじゃない日記でも何時間もかかるとおっしゃる方もいるので、私なんてまだ書く速度ってけっこう速いと思うんですが。
それをまあ小説書くのにつぎ込めばいいんでしょうけど、私にとっては「今」「この時」「これを書かなければ」生きていけないというほどに思いつめてるところがあるんですね。とても大げさなんですけども。

けれど。私の今の状態っていうのも、この「小説道場」のあとがきに書かれていることに語られている、そういう気持ちがしてなりません。
以前サイトで日記を書いていた時も、こんな感じで自分の気持ちを吐露しつづけていました。思わない攻撃でやめてしまったわけですが。けれど、その攻撃も今になって思えばそんなに大したものでもなく、その攻撃で明らかになった呆れるほどの自分の弱さと、人間関係をきちんと責任持って保つことのできなかった私の不徳の致すところだったのですよね。
でも、結局、私は書きたくてしかたないんだなと思う。いろいろ紆余曲折はしてきましたが、やはり私は私らしく、私のカラーで書いていくしかないのだと今はそう純粋に思います。たとえ「ああ、どうせまた同じことの繰り返しだな」と誰かに思われたとしても、私はやはり書いていくしかないのだと、そう思います。

そういうことで。長い前置きになりましたが、ちょっくら家事やっつけてきて、それからじっくりと書いていこうと思います。よろしくお付き合いくださいませ。

11:33

さて。その「小説道場」簡単に説明すると、小説を書く上での指南書みたいなものと取ってもらったらいいです。
けれど、ここでひとつ付け加えるとしたら、これが連載されていたのはかの有名な耽美幻想雑誌「小説JUNE」であったこと。ですから、取り上げられる小説もほとんどが同性愛物であったんですね。でも、そういう物語でなくても、何かを書きたいという人にとってとても勉強になる本だと私は思います。
私も仕事を辞めてからいろいろな作家さんの小説書きの指南書を読みましたし、それら全てがとてもいいことが書かれていて、私なりにいろいろ活用させていただきました。
けれど、中島さんのこの「小説道場」はたんに小説を書くためだけのものとしてだけではなく、私を長年悩ませてきたいろいろな事を解き明かすものとして、私にとっては特別なものとなっていったことは確かです。

書くということ、自分が何を求めているかということ、そして、この人になら私のことも理解してもらえるのではという気持ち、それらをこの本を読んだときに実感しました。
でもまあ、今は、その「理解してもらえる」という気持ちは、あまりに過信してはいけないとは思っていますが。というのも、この本のあとがきにも書かれていたことですが。

『「真実の愛」「真実の理解」は存在しない』

それを私は今実感していますので、彼女に心酔はしていても、今の私は彼女に対して「理解してもらえる」「理解してほしい」とは思っていません。たぶん、「わかるよ、あなたの気持ち」と中島さんは思ってくださるでしょうが、それは本当の理解とは違うものでしょうね。というか、「理解してしまってもまたいけない」のではないかと。「理解したのだ」と思い込んでしまうことは間違いなんじゃないかと、今はそう思います。

で、まずこのことを。

お友達も言ってましたが、私も自分を女としてではなく、一人の人間として愛してほしいと思っています。私という存在は一人しかいないわけで、そんな一人しかいない私を「あなたでなければダメだ」といって欲してくれること、それが究極の願いなんですね。

そして、小説を書く本当の目的は、それを擬似体験したいからなのです。夢を見たいからなのです。
「真実の愛」「真実の真」を追求すること、それは日常生活で相容れないものであると中島さんは言います。もちろん、それは違うっていう人もいる。けれど、私たちが追い求めている「真実の愛」は確かにそうであると思います。
中島さんも言ってましたが、誰かを愛するということを私たちは簡単に口にしますけれど、本当に愛というものが何なのか、知っている人がいるのだろうかと。

私は愛というものがわかりません。

何度も言いますけれど、家族愛、夫婦愛、そういうものは今の私が抱いている気持ちであるという実感は持っています。今の私の気持ちがそれであると思っています。それは、家族愛などというものは、その人自身の愛とはいえないからではないかと思うからです。そこに家族ごとの違いはないと私は思う。
けれど、男女の間の「愛」あるいは一対一の人間同士の「愛」はひとつとして同じ物はないと思う。だから「真実の愛」なんて存在しない。誰にも「これが真実の愛なんだ」とは言い切れないんじゃないかと。だからこそ、そこに物語が生まれるのだと思います。
わからないからこそ、様々な物語が紡げる。いつの日か、その真実の愛を手にすることができるのだと願いつつ、切なる思いで私たちは書き続けるのです。
そういう真実の愛を考えることを「くだらない」と思う人もいると思います。それはそれで一つの生き方──というか、そう考えないとまた生きていけないのが人間だと思います。というのも、中島さんがおっしゃるのには、そういう真実の愛と日常生活を両立することができない人たちもまた実際に存在していて、その人たちはなかなかにしんどい生き方をしているのですね。

そして、そういう人たちを「少女」と呼んでいる。

ここでいう「少女」というのは、年齢がそうではなく、また性別も問わないのです。男性でも少ないながらもそういう方はいると、中島さんはおっしゃっていますから。で、老婆になっても「少女」である人はいるわけです。つまり、日常生活を放棄し、真実の愛を追い求める人は等しく「少女」であるということなんですね。
私も「書く」という行為のために、何もかも放棄しているところがあります。
物を書き出すと、それが小説だろうが日記だろうが詩だろうが、とにかく何をさておいても「書きたい」という強い欲求に駆られます。だから、しばしばご飯食べるのも忘れて書いてしまい、気が付いたら空腹でヘロヘロになってることもありました。本当なら寝る時間もうっちゃって書き続けたいんですけど、さすがにそれはできませんね。

なぜ、そうまでして書きたいのか。

それはやはり、書くということで何かを追い求めているからに他なりません。口さがない人ならば「ただ自己顕示欲が強いだけだ」と言うでしょうね。まあ、それは私自身もそう思っていますけれども。(^^;;;
けれど、こういうところで日記を書く人は等しく自己顕示欲は強いと思いますけどね。私だけじゃないってことで。(爆)

それが果たしていいことかどうかは別として。
そうしなければ生きていけない人もいるわけで。

以前ならそれを理解してほしいと思っていた私ですが、今は理解してもらいたいとも思っていない、そういうところまで気持ちが固まってきたと私は思います。というか、中島さんもおっしゃっていましたが、「理解されてしまってはだめなのかも」という気持ちも出てきました。


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