13:32 02/11/01(金)曇り。


「天ちゃん日記」22号。

そっか。ああ、そういう考えもあるんだなあと、ちょっと目からウロコな天ちゃんです。(爆)

はは…謎な出だしするの、日記公開しているときからのクセですよねぇ。どうも書くっていう段階になるとネタ的な書き方しちゃうところがあっていかんなあ。
小説やキチンとしたエッセイとかなら、そういうのって効果的でいいんでしょうが、なにも日記にまでやらんでもなあ。しかも、以前のように不特定多数の誰が見てるかわかんないってわけじゃないし……けど、やっぱり以前と同様いろいろ読みやすさとかを考えて書いちゃってるとこあります、実は。
とまあ、またまた書き出しが長々としてしまいましたが。

えーとですね。

さっきある方の日記を読んだのですが、「おお、そういう考えもあるんだ!」と認識を改めた天ちゃんだったのですよ。
その方はお子さんを車で学校まで送ってあげたということを書かれていたのですが、今までの私だったら「子供を甘やかしている」と言ってたでしょう。

確かに基本の考えは、そういうのは「甘やかしだ」と思っている私です。

以前、とっても天気のいい日の朝、何かの用事で近所を歩いていたとき、近所のある方が中学生の子供さんを車に乗せ送っているのを見ました。しかも、明らかに自分の子供だけでなく、友達も乗せている。
それだけ見て私は、「まったく、何やってんだか」と思ったものです。だって中学ってここから歩いて5分くらいの場所にあるんですよ。
その時はほんっと「ああいう親がいるから子供が強くなれないんだ」と思ったものでした。

けれど、日記を書かれた方はこう言ってました。
子供と話すいい機会だと。
私は、その一言で、いかに独り善がりなことを考えていたのだろうと、激反省しましたね。
そっか。
そういうことだってあるんだ。
私なんてずっと家にいるから話ができないってことはない。
私は、子供が帰ってきたら「おかえりなさい」と言ってあげたいがために、金銭よりも親子としての触れ合いを考え仕事を辞めたわけですが(といっても、仕事を辞めた一番の理由は小説書くためですが^^;)、世の中にはそうすることができない人もいる。
働かなくては暮らしていけない人。
暮らしていけないことはなくても、家を建てたいとかいう目標を持って働いている人。
そういう人たちにとって、子供と少しでも接していられることを模索するのは大変なんですよね。
うん。
そう思うと、ちっとも甘やかしじゃないですよね。
ただ、すべての親が「甘やかしているわけではない」とは言えないとも思います。
その日記を書かれた方は、私の印象ではまったく「甘やかし」という思いは抱きませんでしたが、他の方で明らかに「それは甘やかしだろう」というのもあります。
まあ、さっき書いた近所の方は、どういう事情で送っていくことになったのか想像するしかないんですが。もしかしたら、何かの大会で、大会場所に送っていったのかもしれないし。だから、直接その人に聞いたわけではないので、めったなことは思わないほうがいいのかもなあって。

この団地でも私の同級生の人が母親していて、その子供たちはよく何かの大会とか出てたり、運動系の部活とか活発にしているので、よく車で大会場所に送ったりしてますよ。それはそれでいいんでしょうが。
だけど、もし私の息子がサッカーとか野球とかバリバリにやるような子供だったとしても、私は免許ないので送っていってやることはできません。
というか、私も小学生のときなんかにバリバリ運動やってて、いろいろ大会に出ましたが、親に送ってもらったという記憶ないですね。たいがい学校の先生がバスに乗せてくれて連れていってくれたもんです。
やっぱり学校行事で親が出ていくのは───なんか納得できませんな。

さて。

たぶん、天ちゃん日記読んでる方で、私が誰の日記を今回引用しているかおわかりな人が多いと思いますが(爆)、さらにその方の掲示板で話題になっていたことで、ピクリと反応したことが。(笑)

お客さんの中で、こういうことを言っておられた方がいました。

『仮想でもいいから恋愛しろ』

これは、その書かれた方がご自分のダンスの先生に言われたことなんだそうですが、管理人さんもおっしゃっていたように

『自己暗示ってやっぱり大切なんだ』

っていうのホントです。
私なんて自己暗示通り越してしまうことがあって、ヤバイ場合がありますが。(爆)
けれど、作家という人種は一種の自己暗示型人間だと思う。だって、そうじゃなきゃやってけないよ。仮想世界をいかにリアリティあるように書くかなんて、自分が「これは本当のことなんだ」と思いこまなくちゃ書けないと思うもの。

それに、私は本当に信じてるんだよ。
前にも日記で書いたと思うけど、私は自分が書いた物語って全部本当のことだって信じてる。
この今私がいる世界には存在しない場所、人、出来事かもしれないけれど、パラレルワールド──つまり、異次元の世界でちゃんとそれは存在するんだってそう信じているんです。
だから、ジョーだってマリーだってシモラーシャだって、みんなみんな絶対どこかに存在してて、私はそれこそ神託みたいにそれを書いてるだけなんだって。ここらへん、眉唾だと思う方は絶対いるだろうし、そういうこと言うと、栗本さんもそういう感じで物語を書かれているから、「ほら、やっぱりあんたは信者だ」とか言われちゃうだろうけど。(^_^;)

けど、信じるその心は作家として大切なことだと私は思う。

それなくしちゃったら、本当に面白いもの、夢のあるステキな物語は書けないって私は思うんだけどなあ。

次いきます。(笑)

私は「言葉」というものを一種の魔力のようなものだと思ってます。
たった一言の言葉で、泣いたり感動したりする自分が愛しく思うことがあるんですが、自分の「言葉」で相手が同じように感動して泣いてくれるっていうのすごく嬉しいし、そうなった瞬間が私にとっての至福のひとときだと思うのです。だから、書く行為はやめられない。
けど、私が書く言葉たちは、私が「無」から作り出したものではないんですよね。
つまり、私が今まで見聞きしてきた言葉たちを私なりに変形して脚色して、私のカラーに染め上げた言葉として提供しているわけです。まあ、そこらへんのことは、以前からいろいろなところで書いてきているので、今更なんですが。
こういうのって、盗作などのことに微妙にからんでくる話なんですが、何と言うか、どういうことが盗作か───そういうのってやはり人それぞれで基準が違うと思うのです。

私が「これならいいだろう」ということが、ある人にとっては「それはだめだ」となるかもしれない。
私が書いてきた小説・詩なども、ほとんどが好きな作家、好きな誰かが書いていた「ステキな言葉」に影響されて書いたものたちばかりです。中には元々の言葉や物語を忘れてしまってて、後にその本とかマンガとかを読み返してみて「なるほど、これを読んだからか」と思い出す場合もあります。
私は「盗作である」とは叩かれないような書き方をしているという自負はありますが、これもまた私がマイナー作家だから言えることなのかもしれませんね。

えっと。またまた前置きが長くなったのですが。(笑)

新聞に「世界がはじまる朝」という本の紹介がありました。黒田晶さんという方が書かれたものらしいのですが、1977年生まれでイギリスの大学に在学中だとか。ほー、若い作家さんなんだなと思ったのですが、この本はちょっと読んでみたいなと思いました。
今私が一番ジャンルとしては書きたいもので、現代の若者の不器用な恋愛、若さと恋愛と言葉の関係を描いたものだそうです。
記憶喪失なアメリカの少女。その少女を愛する日本人の少年。その少年との出会いで記憶を取り戻すけれど、いつかまた病気が再発するのではないかという恐れを抱く少女の心の葛藤。
で、私がいい言葉だなあと思ったのが、その少年の言った言葉。

『また会おう。毎日、おれとルビーは出会うから。おれのことを思い出さなくても、おれと出会って』

もうこの言葉だけで、(T_T)です、天ちゃん。(笑)
こういうステキな言葉たちを糧にして、私も人々に感動と涙を与える言葉たちを生み出していきたい。
それが私の一番の願いかもしれないです。

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