2002年10月3日 14:59(木)晴れ え? いくってどこに?(爆) いやいや、またしても唐突大王の天ちゃんなんですが。(笑) 今ガクトさんの「MOON」をガンガンにイヤホンで聞いてるのですが、「忘れないから」に「そこに行くから」っていう歌詞が出てきて、んで、つい「どこに?」となってしまったという。ただ、それだけのことです。(爆) やー、だんだんと意味不明なことを書くようになってきた天ちゃんですよねぇ。(え? 前からそうだったって? そりゃまた失礼しました^^;) ま、とにかく、今の私はガクトさんの歌しか聞いちゃいねぇ状態なんでカンベンしてくださいませ。 ツボハマると飽きるまで続けちゃうとこなんか、やっぱ息子ちゃんも似てしまったらしいんですが、うちの息子ちゃんもそういうとこあります。飽きもせずずーーーーーっと続けるっての。ほら、この間のチボリ公園でのクラシックカーに十何回も延々と乗り続けたってやつですよ。 そういえば、遠足。何とか今朝は6時に起きまして、用意いたしましたさ。リュックサックを買うの忘れてて、はーてどうしようかと思ったけれど、ほーほーそうだ、私のでいいじゃないかと。私が原付の免許を取った時に誕生日のお祝いで「かりん党」の皆からもらったのがあったんですね。とはいえ、身体のちっちゃな息子ちゃんなので、どうもどっちが背負われているかわかんない感じでしたが。(^_^;) さて。 今日はちょっと朝から一仕事いたしました。(笑) 仕事って言っちゃちょっとご幣あるんですが、作品の批評を頼まれたので、それを息子ちゃんを送り出したあと朝一でやっちゃいました。まあ、短篇だったということもあってそんなに大変というわけじゃなかったです。 それに、その作品もなかなかよくまとめられたもので、そんなに指摘をするようなところはなかったですね。 というか、やっぱり私なんかでは的確な批評ってできないような気がします。本当はきちんと批評ができなければ、一人前の作家とはいえないのかもしれませんがね。 えーと。 掲示板でとても懐かしい人がカキコをしてくれたのですが、そこで彼女が
と書いていたのに対して、私が「自分が無くしてしまわない限り、ぜーったいなくならないの」とレスしたのですが、旦那が横からチャチャ入れて「忘れるけどね」と言ってましたよね。(爆) でも、そうですね、忘れるというか、自分が忘れたくないと思ってたら普通は忘れないものじゃないですか。 だから、忘れないってことはやっぱりそれに執着してるからですよね。それは当たり前のことなんだけど。 で、本当に忘れてしまってる場合も実際あるわけじゃないですか。それって、ふたつ考えられる。ひとつはそれこそ忘れないと精神的にヤバくなる場合。しばしば二重人格に移行してしまう場合なんか。それはもう忘れるしかない悪夢だったってことでしかたないことなんですが。 あとひとつは、どーでもいいこと。 よくどーでもいいことなのになんでか忘れられないってのありますが、あれはやっぱり自分が思うほどそれはどーでもいいことなんかじゃないんですよ。だから忘れられない。 忘れられないことを忘れる必要なんてないです、絶対に。「忘れるよ」って言って本当に忘れることって絶対あり得ないですね。本当に忘れてしまうことって、そもそも「忘れるよ」なんて言葉は出てこないと私は思う。 というか、ちょっと話がズレてきました。(いつものこと^^;) ええーと、ちょっと前に新聞で作家の伊集院静さんの「愛するものとの別れ」というコラムが掲載されててそれを読んだんですが。 奥さんが犬を飼いたいということで、奥さんの気質を考えて果たして犬を飼うことはいいことだろうかと。 それはちゃんと飼えるかということではなく、犬が死んでしまったときにその悲しみに耐えることができるだろうかってこと。 伊集院さんは、自分は『身近なものを亡くしてきているから、忘却、つまり知らんぷりの仕方を知っている』のだけど、奥さんはその経験がないから危ないって。 そうですよね、時として、身近なものの死っていうのはそれを目の当たりにした者に多大な衝撃を与える場合があります。耐えられなかった場合、引きずられるように死の世界に踏み込んでしまうときもある。 けれど、生きている限りは死は必ず経験するわけで、最後には自分がそれを経験してしまうわけで、そうすると、犬くらいの死───と言ってはちょっと冷たい言い方ですが───で慣れていくのがいいのかもしれません。 伊集院さんは
と言われていますが、まさにその通りです。 忘却してると言えども、これは真実忘れ去るということではない。というか、少なくとも私は一度経験してしまったことは絶対に忘れ去るということはないと思うんです。それこそ、心の中のたくさんある「忘却」という壺に封じてしまい、それが死ぬまで一度たりとも蓋が開けられない状態を「忘れてしまった」ということだと思う。 それがふとしたことで開けられてしまうこともあるし、一生開けられない場合もある。その開けられなかった場合というのが「完全に忘れてしまった」ということなんじゃないかと。だけども、これはまったく「無」になってしまったというわけじゃないですよね。もしかしたら開けられてしまうことだってあるってことで、だから、存在しないものじゃないんです。 そういえば。 この伊集院さんって、私は本読んだことないですけど、ほー、マッチの歌詞書いたのもこの人ですか。「ギンギラギンにさりげなく」って実は好きな歌なんですよ、私。(笑) それにしても、週刊誌で「二日酔い主義」っていう連載してたんですって? どんな内容なのかは知りませんが、もう書いてないそうですね。なんでもやめた理由が『何か説教くさくなったような気がしてね。世の中わかったようなこと書いてるのがいやになった』と。『自分はギャンブルだってする、酒場も行く、女と遊ぶのに、ある部分のオピニオンリーダーにされそうで』だって。 それ聞いて、私と同じだーと思いました。 私が新聞の投稿に以前より積極的にならなくなったというのも、一重に伊集院さんと同じような理由があるからです。私は伊集院さんが言われるように『私はそんなに善人じゃない』っていうのが常に心にあるから、だから、偽善者ぶって(そういうつもりはないんですけどね)物申すみたいなことやってるのがちょっと苦痛になってきたというのがあります。 以前にも言いましたが、新聞に書いたことは嘘ではないです。 それは本当にそう思っているから書いたことなんですが、その逆の考え方というのもまた自分の心にはあって、どちらとも決めかねないところがある。けれど、何か発表する場合は、どうしてもどっちかに決めつけて書かないと読む側も混乱してしまうというところがあるので、どうしても一方向の書き方しかできないんですよ。 けれど、常に自分の心の中では、今書いたこととはまた別の意見というのが歴然として存在してて、それをまた誰かに聞いてもらうことによってその聞かされた人が「あなたという人がわからない」となる。だから、主張するって難しいです。でも、私は黙ってることができないんですよねぇ。 だから、小説というのはそういうてんでいいのかもしれないね。いろんな主張をいろんなキャラですることができるから。まさに、百通りの意見がある私にとってうってつけです。 でもなー、ちょっと今はもう少し自分の本音というものをあまりさらけ出さないほうがいいのかもねーって思うようになりましたね。(^_^;) ま、真の真の本音っていうのは、さすがに誰にも話したことはないんですが。そうだな、旦那くらいかな、話したことがあるといえば。 あ、関係ないけど、昨日見た再放送の「ナオミ」で、ちょっと心に響く言葉が。(笑)
その通りだなと頷いちゃいました。(爆) |