2002年8月11日 15:42(日)晴れ時々曇り


さて、何から書こう。

今日は、というか、昨日からこっちいろいろなことが立て続けに起きていて、少しパニック状態に陥ってる天慈です。近頃は、表で書いていいことと裏に封印しなくてはならないものと、ちゃんと分けて書いてはいたのですが、今日はちょっと突っ込んだことまで書いちゃってしまうかもしれない。だから、最初に断っておきます。今日の天慈はヘンです。(いつものことだと言わずに〜^^;)失言してたら許してください。なんなら「それはダメだよー」って、こっそりメールください。あたくし、自他とも認めるマナー違反者ですので、「それはいかんだろ」ってことはビッシバッシ意見してくださらないと、つけあがりますからね。(爆)

今朝新聞を広げたら、鳥取文芸の受賞者が発表されていました。受賞者は新聞発表の前に通達があるので、もちろん私の名前が載っているわきゃありません。そうです、落っこちちゃいました。(T_T)
で、昨日からヘコんでいた私でしたので「とどめを刺された」わけです。

ああ、私って、やっぱりダメなヤツなんだ

性格破綻者であったとしても、芸術的に秀でているとかなら、それを支えに生きることはできるかもしれないけれど、唯一私が誇れる文章を書くということが認められないってことは、己の存在自体も否定されたような気持ちになる。なんでそこまで───って関係ない人は思うかもしれないけれど、それはしかたないことなんです。作家になりたいと、自分の小説が認められたいと、少しでも思っている人は、誰でも身に覚えはある感情だと思います。というか、そういう気持ちがないなんてことはあり得ない。「いや、そんなことはないぞ」っていう作家志望の人もいるかもしれないけれど、それは絶対に耳をふさぎ、目を閉じているだけ。ただ気づいてないだけだと思います。

で、今回もまた、自分ではいいもの書けたと思っているわけですので、いいかげんクサクサしてきちゃっても仕方ないこと。「もう、いやだ。もう投稿なんてしないぞ」ってなる。投稿するってことは、一発で受賞できる才能ある人と、何度も何度も落っこちて努力して最後に受賞できる人と、まったくお話にならないものしか書けない才能ゼロの人に分かれるってことです。
自分はその三つのどれに所属しているか───それを見極めるってことは辛いことなんですけど、過去に2回佳作になっている私としては、おそらく努力すればなんとかなるということは一目瞭然です。(自分でそう言うのもおこがましいことなんですが)
けど、私は努力することが嫌いな人間なんで、ややもすれば「こんなめんどくさいことやめちゃる」って、どうも思ってしまうところがあるんですよねぇ。そういうことで今朝新聞見た直後は「もう投稿やめようかな」と思ってしょぼんとなってました。

ところが。

この間から私、何度も「運命」という文字を意識するような出来事が起こっているんですけど、今度もそう思えてしまうようなことがありました。といっても、なんのことはないっていうことかもしれないんですけど。でも、私にとっては「これは運命」って思えたので、運命なんです!(笑)
ええと。つまりですね。しょぼんとなってからそうですね、15分くらいでしょうか、いきなり電話が鳴ったんですよ。実家の母からでした。この間千葉の叔母さんから桃が送られてきたのですが、母の話によるとまた同じ数の桃の箱が叔母さんの名前で送られてきたんですって。母はヘンだなと思って叔母さんに電話したんですけど、叔母さんが確認したところ、どうやらお店の人が一度処理した伝票をきちんと管理してなかったらしくて、まだ送ってないと勘違いしてもう一度配達処理をしてしまったんだそうです。まあ、お店側の落ち度ですのでお金はいらないから「どうぞ食べてください」とのことでした。
で、母は「なんかついてるぞ。ジャンボも当たったりして。でもお母さんは買えなかったけどね」と言うので、「ついてる」という言葉に(T_T)となった私は、鳥取文芸にたった今落選したんだよーという泣き言を言ったわけです。「全然ついてないじゃん。それについてるのはお母さんで私じゃないよー。私だって今年はお金なくてジャンボ買えなかったんだからー」と。
そしたら「桃だって結局はおまえのところにもくるんだから、ついてるんだよ。だから、くさってないで、また来年挑戦すればいいじゃないか。どんな話書いたの?」と聞くので、これこれこうでっていう話をしたんですが、なんかね、母と話していくうちに、だんだんと「また書こうかな」という気持ちが出てきたんですよ。(単純天慈さん^^;)

人にグチとか聞いてもらうって、やっぱり癒されるのかなあと今ヒシヒシと感じていますね。母と話をしたあと、「そういえば、あの書きかけの話、あれ来年の鳥取文芸に出してみようかなあ」と、次回テーマが決まっちゃったり。自分の中でどうどうめぐりするより、自分ではないほかの誰かに聞いてもらうって、ほんとに大事なことなんだなあ、本当に本当にそうなんだなあって今は思えます。
そう思うと、まあいろいろ失言とかしちゃう私ですが、こうやって皆に日記とかメールとか掲示板とかで聞いてもらうことによって──そして、それにいろいろ意見してもらったり、優しい言葉をかけてもらったりして、私はだんだんと癒されて平穏な心を保てるんだなあって思ったら、私ってまだまだそんなに捨てたもんじゃないのかなって思えます。
ちょっとした失言で相手を傷つけることはあるかもしれない。けれど、どうしても許せないほどの「言ってはいけないこと」を言うことは私はない、きっと大丈夫って、なんだか思えるようになりました。

それと。

その母との顛末があったあと、今朝はふたりの優しい理解者から、愛情あふれるメールをいただき、ええ、天慈さん、さらに感激でおいおい泣いてますよ。ああ、よかった、旦那は仕事に出て、息子は遊びに出たあとの一人のときで。(笑)
実はですね、昨日は他にも泣くような出来事あったんです。悲しくて、ではないですけど。ひとつは夕食作りながら見てた「ウルトラマンコスモス」なんですけど、ほんと、あれっていつも思うんですが、昔のウルトラマンを知っている私などから見ると、とてもウルトラマンらしくない番組ですよね。
ちょっと前にやってた「ウルトラマンティガ」もそうだったのですが、なんというか、幻想的というか、人の心に何か訴えかけるような、そういう不思議なストーリーが多いような気がします。昔、「ウルトラマンA」がありましたが、あれに近いものがあるとは思いますが。
結局昨日も「コスモス、あんたいったい何しに出てきた」状態でしたけど(爆)、私はまあ個人的にこういう作りは好きなんでいいんですけど、もう今のウルトラマンはウルトラマンと果たして言えるのかなあと思います。
でまあ、昨日のラスト近くでは夕食作りながらしゃっくり上げてました。(笑)
幸い息子は自分の部屋でジャンに夢中になっていたので、私の様子には気付かなかったらしいですけど。(^_^;)

それから、もうひとつの泣く出来事は。

栗本さんの「魔女のソナタ」を読んだから。私の日記の常連さんで、この小説を読んだことある人ってもしかしたらほとんどいないと思うのですけど、たぶん読んだことない人は読まないんじゃないかと思うので、ネタバレしちゃいますが、お許しを。(笑)
とても自殺するような人間じゃない女が飛び降り自殺をしたのですが、それに疑問を持ったかつての恋人である女性が、彼女の死の真相を調べてほしいと名探偵伊集院大介に依頼するっていう始まりなんですが。
そうですね。とにかくものすごーくクドイ話の進み方なんで、お嫌いな方はすごく嫌なんじゃないかと思う。すっきりとした文章が好きな人は絶対敬遠するだろうなあとか思いながら読んだんですけど。
栗本さんの小説ってセリフが異常に長いんですよね。一人のセリフが何ページにも渡って延々と語られるってことはざらです。けど、私はそういうのって嫌いじゃないので、一冊すべてが誰か一人の人間の語りだったとしても全然OKです。

とと。そういうことではなく。(笑)

その自殺しそうもない女というのが、またすごい濃いキャラなんです。魔女という形容詞がピッタリなんですが、とにかくどんな人間にも(男にも女にも)モテまくる、そして、それをちゃんとわかってて傲慢に、ワガママに、自分勝手に生きていってるというすごい女なんですが。
でまあ結局自殺は自殺なんだけど、自殺に追い込まれて自殺してしまったということだったんですが。だけど、どうしてそういう殺しても死にそうにない人間が自ら命を絶つのか───というのは、やはりその人間の心の奥底にある「何か」に起因するっていうことを、伊集院大介は彼女の生い立ち、彼女と関係のあった人々からの話を詳しく聞いていくだけで、それを洞察していく、まさにサブタイトルである「魔女のソナタ──伊集院大介の洞察」なんですね。

で、なんで私が泣いてしまったかというと。

知ってる人は知っていると思いますが、私は少し前に心無い言葉を投げつけられました。それは他人に絶対言ってはいけない言葉だったんです。私も今までに失言とかたくさんしてきて、知らず知らずに他人を傷つけたりしたことありますし、最近でも同じように「それは言っちゃいけないよ」っていうことを諭されたりしました。
けれど、私の失言はまだ許される余地はありましたが、この私が投げつけられた言葉は、100%許されないことだった───らしいんですけど、私はまあ許したいと思っています。(まだ言ってるよ、だからお人よしって言われるんだろうなあ^^;)
まあ、ここではその「言葉」は書きませんが、言葉って本当に力を持つっていうこと、今回の私の上に起きたことがあったがために、この「魔女のソナタ」はズンと心に重くのしかかりましたね。この本を、私に「言ってはいけない言葉」を送ってきた相手に読んでもらいたいくらいです。

この本に出てきたその魔女のような女は、戦い続ける女でした。とても強く、その生き様や物腰や考え方など、はたから見るととても自ら死を選ぶ感じではない。けれど、そういう人間になっていったのには、やはりそれだけの過去が彼女にはあったわけです。詳しいことは長くなるので割愛しますが、とにかく、彼女は幼い頃から他人に「嫌われる」ということが何よりも恐怖でした。
自分が嫌われないような、誰からも好かれるような、そういう世界を望み、自分を否定し続けた田舎から飛び出したわけです。
幸運にも──もしかしたら不幸にも──彼女は魅力的な女だった。それに気づいた彼女はとにかく男とも女とも恋愛を飽くことなく重ねていくわけです。でも、それはいつか失われるかもしれないという強迫観念として彼女の心を支配していたのでしょう。
けれど、そういう彼女でありましたから、当然憎まれることも多大にあったわけです。まあ詳しく言うと、憎しみからというよりは歪んだ愛情が憎しみに変わっていってしまったある人物に自殺に追い込まれていくわけなんですが。
彼女が「嫌われる」ということを怖れているということを知ったその人物は、何度も何度も何年にも渡って彼女に囁き続けました。

『誰もあんたのことなんか愛していない、みんなあんたが嫌い、あんたなんか消えてしまえ、あんたのことなんか気にしてやしない』

この言葉は彼女にとって一番聞きたくない言葉だった。
それを何年にも渡って繰り返し囁かれたとしたら───どんなに強靭な心の持ち主でも、まいってしまうでしょうね。
でも、彼女の強さを知っている者は「そんなはずはない。だって彼女は男にも女にも愛され、この私だって彼女のことしか考えてなかったじゃないか」と言うのですが。

わからない人にはわからない。

どんなに「好きだ」と言われても、どんなにたくさんの人に気にかけてもらっても、「まだ足りない」「すべての人に好かれたい」と思ってしまう、この愚かな気持ち。
私はわかる。そのために、ちょっと前に傷つけてしまった人たちがいますからねぇ。で、どうしてそういう心に支配されてしまうのか。それを伊集院大介は解いて行くのですが。
それを読んだとき、私は泣いてましたね。
なんとなくわかってはいたけれど、そうか、私もそうなんだと衝撃を受けました。

本当は強くもない。
弱い心を見せたくなくて、それで強さという鎧で包んでいるんだって。

ただ、私と彼女が違うのは、私は彼女ほどもてるわけではなく、自分が弱いっていうのを自覚しているから、だから、周囲の人に対して騒ぎ立て、なだめられ、そうして元のさやに戻ってしばしの平穏を謳歌する───それで何とか生きていっているということ。
でも、私も彼女のように若い頃は誰にも自分の心を明かさず、自分で自分を守るんだと思い込んでいた。あのままずっと生き続けていたら、私も同じ道を辿ったかもしれない、辿らなかったかもしれない。それはわからないけど。

覚えている限りで、私は「嫌い」と言われたことはたった一度だけだった。あの不幸な事件があった小6の頃。私はとにかく心に傷を負っていた。その傷が癒えないときに、彼女たちに「あんたなんか嫌い」と言われたわけです。それはもちろん、彼女たちにしてみれば、そう言わなければ私から逃れられないと思ったからやむにやまれずだったのでしょうけど、私はあれから他人に対して「嫌い」という言葉が言えなくなりました。確かに、そう言われるほどのことを私は彼女たちにしたのでしょうけど、けれど、けれど、言って欲しくなかった「あんたなんか嫌い」という言葉だけは。もっと他に言葉はあっただろう。けれど、私も子供だったけど、彼女たちも子供だった───どうしようもなく愚かな子供だった、気付くはずもない。
だから、私は何とか立ち直らなくてはならない。「魔女のソナタ」の彼女のようにならないためにも、私は立ち直らなくてはならない。

けれど、私はここで訴える。

絶対言ってはいけない言葉。
それを言えば、必ず自分にその報いが返ってくるということを。
それを忘れないで欲しい。
それに気付いて欲しいって。


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