2002年5月20日 17:50(月)曇りのち晴れ


センタッキー(洗濯機)が〜
壊れた模様〜σ(^◇^;)

いやー、どうでしょーねー?
いつぞや、センタッキーちゃんの調子がよくなかったことがあったんだけど、何とかだましだまし使っていたのですよね。
ところが、今朝洗濯してたら、脱水がおかしーんですよ。
一回目はちゃんと普通に脱水できたんですけど、二回目脱水しようと思ったら……この世の終わりが来たかのようなものすごい音が!!
やー、なにこれぇ〜っていうほどの大轟音が響いて、とてもそれ以上脱水を動かしていることができなくなっちゃったんですよ。

いえね。

どうやら動くことは動いてるらしいんですが、とにかくものすごい音がしてるんでとっても心臓に悪い。ここは団地。隣近所に密接してるわけです。あーんなものごっつい音させてたら御近所迷惑じゃーないですか。(><)

うえーん(><)

そういうことで、二回目の脱水はほとんどできないまま、手でしぼることにしましたが、手でなんて限界があるじゃーないですかー。はぅ〜、センタッキーも買い換えなくちゃならんのかー。まったくー、次から次へと。TVだってレイゾーコだってもうそろそろ寿命がつきかけてるのに……ああっ!! そーいやセンプーキも買うんだった、この夏は。(><)ひーん、なんてーこったい。
今年に入ってから、なんとか事件(爆)が続出してたもんでアタクシの身体の検査費用もバカスカかかったし……やっぱ今年は厄年か?(T_T)

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今日はちと天慈さんはヘコみ気味。

大好きな人に「こうしたらいい」なんてタカビーなこと言ってしまった。考えたらそんなこと言うのって決めつけですよねぇ。

たとえば、性格とか性質とかって誰が何と言おうと変えられるもんじゃないし。私だって自分の性格が即変えられるなんて思ってないし。
私がもし「もっと積極的に地域の人と関わっていったら? そしたら苦しまなくてもいいじゃん」って言われたとして、「はい、そうですね、そうします」って言い、そしてたとえ心で「そうだよなー」と思ったとしても、言われたとおりにするかと思ったら──きっと、しませんわな。^^;
中島さんが評論集で「絶対に変えたいと思ったら自分の性格は変えることができる」というようなことを書いておられたことがありましたが、それは他人は関係ないことで、自分自身が「本気の本気でこれではいけない。絶対に変えなくては自分はダメになってしまう」と強い決意があれば変えられるってことだと思うんです。

変えられない、変らないっていうのは、すなわち心が弱いってこと。

それがいいか悪いかは誰にも決められないことで、絶対に変えたいと思うなら変わるし、変らないのなら───変りたくないってその人は思ってるということ。いや、そんなことはない、変りたいんだ、けれども変れないんだって言いたい人もいるだろうけど(実際、中島さんにそう言ってきた人がいるらしいし)それは本人の自覚がないだけで、心の底の底、自分では気が付かない本当の気持ちは「これでいいんだ」って思ってるということなんですよ、うん。

心ってやつぁーほんっと不可思議なもので、どうにもならない場合があるかと思いきや、心ひとつでいろんな奇跡を起こす場合もあるんだよね。

昨夜は私、寝るときにふとしたことで眠れなくなりかけました。実際はいつのまにやらグッスリと寝こんでいたのですが。(爆)
MIDIのお礼に慕さんがメールをくれたのですが、それにも書いてくださってたように私は去年暮れからこっち、いろいろなことがあり心にだいぶ負担がかかっているようです。自分ではそんなふうに感じていなかったのですが(実はこれが一番危ないのですよね^^;)今年に入ってからの体調不調はまさにその心の疲れからくるものだったのでしょうね。
だって、検査に継ぐ検査でも、結局どこも悪いとこはなかったのに、次から次へと不調が出てきたわけだし。

で、そのあわや眠れなくなりそうになった原因というのが。

床に入ってふと考えたこと。
そういえば義父が死んでからちょうど半年がくるんだよなー、あ、21日だったよな……ん? そーいえば21日は子宮ガン検診の検査結果を聞きにいく日だった、ちょうど半年か……なんか偶然にしちゃヤな感じだよな……まさか、変な結果にならないわよなー……(ーー;)……そう考え出すと気になって気になって寝れなくなっちゃう。(T_T)

ようするに、いつも私はこんなふうにいろいろ気にしすぎるところがあるわけです。

この間の胃カメラのときにしたって、胃の調子が悪くなって病院に行く──とりあえず薬もらって様子見ましょうってことになる──だけど、ご飯が食べれない──どっか悪いのじゃないかと心配する──さらに気になって気になって仕方なくなる──そうすると胃だけにカメラ飲まなくちゃならなくなると考える──ますます気になる──ますますご飯食べれなくなる──という悪循環になっていくわけ。
で、結局カメラ飲んじゃったわけですが、胃が荒れてたっていうのはまさにその気にしすぎの悪循環の結果だったわけです。神経性の胃炎って、そういうことでなっちゃうもんでしょ。ほんっと心って怖いし、気にしすぎって怖いですよ。

反対に、心ひとつで病気が治ってしまうということもあるわけで。

ほら、ガンが消えてしまったということだってあるでしょ。あれって性格にも起因するって聞きましたよ。もちろんすべての事例に当てはまるというわけではないですけど、心で病気が治るってことは確かにあるわけです。
私の母がまったく病気ひとつせずにここまで生きて来れたというのは、一重にその性格にあるんじゃないかと私は思います。
長くなるので詳しくは語りませんが、私の母もかなり不幸な過去を持つ人です。きっと私なら生きていけないほどの苦労をしてきたんですよね。だけど、物事をくよくよ考えない、なんとかなるさ、不幸だけどそれだけじゃない、ちょっとしたことでも楽しく考えよう───という人。何と言うか、どうしようもないことを深く考えないみたいなんですよね。
だから、おっそろしく物事をよくわかってないことがあったりするんですが(爆)、頭が悪いというわけではなく、ジャンルによってはものすごく物知りだったりすることもあるんです。とくに歴史に関しては、よくそんなムツカシイこと空で言えるほど覚えてるよなーって感心するほど。逆に数学関係はてんでダメですけど、母はまともに学校に行かせてもらえなかったから、それは仕方ないことなんですけどね。
母のような人をうらやましいと思いつつ、そういう人になれば生きることを辛いなんて思わないってわかってても、私にはああいう生き方はできないなーと思ったり。
母のように生きるということは、すなわち物語を紡ぐことも諦めなくてはならないってことなんですもの。深く物事を考えずに日々を生きようとすることは、恐らく作家として生きることではないと思います。

というか、それもまた違うかもしれないけれど、私はそんな気がしますね。だけど、物を書く人たちって、どこかやはり普通の人とは違うんじゃないかと思います。幸せな人は物を書けない──というのもあるんじゃないかと。
幸せでも物書きはいるでしょうし、書くことが幸せだということも確かにそうだと思うんですけど、そもそも生きることをエンジョイしている人は小説なんて書かないと思うんだもの。
私が物語を書くようになったきっかけは、やはりそのときの自分の性格が嫌で、そのときの生活が嫌で、何でもできる強い女の子になりたい、未来世界で宇宙旅行のできる世界に住みたいから、だからそれを満足させるために書き出したわけだし。
自分の性格に満足し、住んでいる環境に満足してたら、きっと小説なんて書かなかった。だから、幸せな人には物語は書けないと思う。私はそう思う。

そして、私は今何のために物語を書くのだろう。
私は何を書きたいのだろう。
それを明確にしない限り、今のスランプからは脱することができないんじゃないだろうか。

むむ…なんかとってもマジメに考えてしまいました。

というか、これがイカンのかなー。(笑)
考えすぎちゃうのがイカンのだろうな。
もっとラク〜にラク〜に、なーんにも考えずに書けばいいじゃん、ね。



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